佐藤さんの懐かしい思い出話

TIさん
どうも! 懐かしいRadioの写真 ありがとう! 
つい最近の様に思いだしました。
小生が大南公司と言う貿易会社に居た時(繊維取り扱いの輸出第四課に在籍)電気/機械取り扱いの輸出第一課に当時梶川と言うF電機の営業マンが週に4回は売り込みに来ていました、殆ど昼休みまで居て、昼休み時間に応接間でポーカーをやり、その中に小生も入り梶川氏とよく張り合いをしたものです。

その張り合い(思い切って張るものだから)を会社に帰って「こんな奴がいる」と山根常務や笹尾常務に話していたらしいのです(後から聞いたんだけど)その内に先輩の赤坂氏が退職してF電機にはいり、頑張った後梶川氏、中平氏等の面々と東京営業所に転勤したのですが、その頃小生の在籍していた大南公司が輸入部の失態で輸入したマトンの販売先が続いて倒産し連鎖で3月初めに倒産!整理の為残り(若い社員では小生一人のみ)その頃笹尾常務から電話があり「直ぐ来たらどうか」などと言われたが、御世話になりますが、整理するのに最後までやらせて貰いたいと御願いした後、4月末頃に初めてF電機を訪問し面接(笹尾常務)し5月1日から入社したものです。生野区中川町のドブ川に面した工場でした。F社長のマンションがあるところで当時ドブ川だったがいまは道路になっている。 営業部としては山根常務が部長としてトップ、その下に中島課長、課員として川崎さん、相原さん、女性の木村さん、小生を入れて6名でした。入社した翌週に杉野さんと相原氏が小生を歓迎してくれて、今里新地で一緒に遅くまで呑みました。又、営業のすぐ横に管理室(?)があり、声の大きい男性がいて入社した日に一応挨拶に行ったら「俺も昨日から入ったところ!よろしく!」との事(竹森のアンチャンだった)その後1〜2ヶ月後技術部に神戸の英会話学校をでた新人が入社したしかし英会話が出来るなら営業部へと移って来た、それが谷山氏だった、彼は川崎さんに代わって当時の東洋綿花の担当になり、川崎氏はF経機の営業に移った。

小生は入社しても誰も何も教えてくれず、勝手に資材部や工場の生産管理、など方々に行って質問したり、ポケッタブルラジオの裏を開けて部品の並びを図にして部品名を一生懸命覚えたものです。ポリバリ、エアバリ、レジスタコンデンサー等

その頃はニチメンがインポーター相手に10万20万台単位でオーダーを入れ、担当員は鼻高々でした大分たった頃たまたま、営業部にF社長がきた時小生として質問、商社扱いなら一流商社の伊藤忠や丸紅住商などへは行けないのですか?と質問したところ、誰かが一度伊藤忠に売り込みに入ったが続かず行かなくなったとの事だが、お前行けるか?出来るか?との回答!出来るかどうかはわかりませんが、行ってみます! と言ったのが始まり十社近い商社を回って居たけど、その中に伊藤忠、丸紅は必ず WELTH ブランドのカタログをもって訪問殆ど毎日(時には雨が降っている時など無理に頭から雨に濡れてその侭  毎度!で訪問したら伊藤忠の女性事務員が「ああそんなに濡れてご苦労さんです!」って手拭を貸してくれた時もあった、芝居が成功した訳)その内に沼田さんと言うアフリカ、中近東担当者が、カウンターの中の応接セットに呼び入れてくれて、貴方の持ってきたカタロクをナイジェリアに送ったところ、すごい指値がきたがどうか?との質問、FT-840 3バンド確か¥5,900.-の見積りに対して¥4,200.- 受けられるなら 200台発注すると言う。 これはチャンスと思い、会社に帰って山根常務に受けさせて下さい!必ず取り返します!と公言して受けてもらったもの。リピートが数回来たが、その内伊藤忠の同じ電子機器部の米国担当の山本さんが、F電機さんの実力を見せてください!と話され図面一式を見せられ、前置きとしてこれは松下に見積り依頼したが、全く合わずディスコンとなったものですがターゲットは ¥5,100.-です。との事。 それが Westinghouse Brand だった、その時小生Westinghouse がどんな会社か知らず、西海岸の方にある会社かな?と思っていた位だった。

直ぐ持ち帰ってディスコンとは言わずに技術に見積り依頼したところ 技術部長だった上野さんが びっくり仰天して「こんな相手に売れたら大変名誉な事だ!」と言って小生初めてどんな会社かを知った程で確か一週間くらいで図面を書き直してスペックも殆ど変えずに添付し、ピッタリの ¥5,100.-で見積りを出した。

それを見た山本さんは本当ですか?と即課長だった吉原(?)さんに相談し、その時 Westinghouse のTom Rinson と言う購買部長が東京に来ていたので山本氏が電話で状況を話したところ、翌日飛んできた。 そこで 今回送ってくれた写真の内、6TR と 8TR 1Band 9TR AM/FM 2Band何れもポケッタブル で各8万台前後のオーダーが決定。社長も喜んだね!
それまではニチメン様々だったが、朝礼でも一流の伊藤忠を通じて米国の大手メーカーと契約出来たインポーター相手では全てに勉強にならない。等と力説していた事を覚えている。
それから伊藤忠との取引きが拡大し、更に丸紅とも契約出来たが、金額的には伊藤忠の方が多かった。

伊藤忠とは4〜5年取引し、Westinghouse からの強い要望であれこれ揉めたが、直接取引する事になった。
小生としたら辛い立場だったにも関わらず、契約書案を作成せよ!で当時伊藤忠の次長だった土田さんと話し合いながら作成したが、小生としたら時間を掛けやっとの思いで開拓できた先との別れ話だから、辛かった。

後先になるが竹森氏も営業に移ってきていて、方々開拓していた、その内に明星商事ーTAC(北村社長)も乗り込んできて、竹森氏が担当した。
事務所が猪飼野に移りビルが出来て社員も増員し小生も12人(含女性)の課長となったが一年位して和泉氏が課長になって営業課を二つにした。
和泉さん達はF社長が出資していた大洋機械貿易を解散し社員だった、和泉さん、新君、門さんが営業に入社、大洋機械貿易の社長をしていた木村さんはF電機の管理部へ、役員だった中平さんと言う人が山根常務に代わって営業の責任者として再出発した。営業部はこの時森之宮に移り独算制になったと思う。 森上君が経理担当課長として来たのもこの時、竹田君も猪飼野に移った時営業に来た、彼は商業科出身だったから営業経理で来た
二人目の女性の指導もしていたが、その女性が今の奥さん。 奥さんの話しとなると、谷山氏からも相談を受け大阪と九州に付き合っている女性がいる、一度両方に逢って見てくれないか?との事、じゃ大阪の人に先に逢おう!と2日くらい後に京橋駅の近くであった挨拶だけだったが、一遍でOKだった。もう九州の彼女には逢う必要がない!大阪の女性で十分、谷やんには勿体無いくらい!決めろ!で決定。披露宴の司会もした。又子供は直ぐ作らないとの事だが、こんどうさんを恥ずかしくて買いに行けない、と言うので小生が一打購入し新婚旅行に出発する駅で万歳三唱の後、上手いチョコレートを買って来たよ!と判らない様渡してやったが、その後も恐縮しっぱなし!まだまだエピソートは山ほどあるが 一幕はここまでにしておこう! 永くなったがごめん!

ラジオの写真を見て思い出したので、つい書いてしまった。写真ありがとう!では又

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以上は佐藤さんから届いたメールでご本人の了解を得て掲載しました。オリジナル文面からさしさわりありそうな社名や人物名をイニシャルに変更させて頂きました。また個人に関する部分を削除した箇所もあります、よろしくご理解頂き皆さんが昔を懐かしく回想されることを望みます。 

大洋機械貿易は森之宮の現F社関連保険会社のある場所でしたか? 一時期は雀荘になっていたようですが私が入社したS39年は2階に2段ベットを詰め込んだ寮しばらく暮らしたことがあります。この寮は後に1階に風呂は出来ましたが最初は無く玉造温泉まで歩いて入りに行ったものです。寮のすこし西隣に韓国飯屋がありおばちゃんにお世話になりました。さらに西隣は日生球場ナイターの照明は明るく歓声が寮まで聞こえた、大阪城も目の前で夜間に時代劇の撮影があると下駄をはいて見に行った記憶があります。

F経機の営業が有った場所は森之宮駅の線路沿いで後、藤田さんが住まいにされていたところでしょうか?
TI