藤岡市助とエジソン

明治17年(1884年)、日本の電気工学の草創期を支えた若き研究者が、国の使節に任命され
アメリカに渡った。電気時代の到来を告げる盛大な博覧会や電気産業を視察した後、
彼はエジソンの研究室を訪ねる。そして発明王に自らの想いを語った。
「日本に帰ったら電気事業の創設に我が身を捧げます」と。
青年の大志に、エジソンは「日本を電気国にするのは、大変よいことだ。
だが一つだけ忠告しておこう、どんなに電力が豊富でも、
電気器具を輸入するようでは国は滅びる。
まず電気器具の製造から手がけ、日本を自給自足の国にしなさい」と応じた。
およそ120年前、このアドバイスを受けた人物こそ、藤岡市助だった。


帰国後、市助は、国や経済界へ電球の実用化・国産化を積極的に働きかけていく。
2年後の明治19年(1886年)、市助の提言により「東京電燈」(東京電力株式会社の前身)
が開業。いよいよ日本でも電気時代が到来した。
同年、市助はついに大学の教職を辞し、東京電燈の技師長へ転身。
英国から電球製造機械を輸入して、白熱電球の試作を開始した。
明治23年(1890年)4月には、同じ岩国出身の三吉正一と共同で「白熱舎」を創設し、
本格的な電球製造に着手する。当初、製造は日産数個。日夜苦労を重ねた末、
品質も向上し、6年後には生産規模を日産280〜290個まで拡大させた。


明治38年(1905年)、市助はエジソンの会社、米国ゼネラルエレクトリック社との提携を図った。
明治44年(1911年)には、タングステン電球「マツダランプ」を発売。
安価で丈夫な国産電球が普及し、市助が理想とした社会が実現する。
その後、市助の情熱を継承する東京電気の技術者により二つの発明
(二重コイル/内面つや消し)がもたらされ、現在の白熱電球が完成。東京電気は海外企業に
負けない競争力を持つ会社へと変貌を遂げ、昭和14年(1939年)、田中久重が興した会社の
流れをくむ「芝浦製作所」と合併。
遂に総合電気メーカー「東京芝浦電気」が誕生する。
日本の技術であらゆる電気製品をつくる市助のスピリットは、今に受け継がれている。

     (記事は東芝HPより引用しました)