取星寺 阿千田越

boianuf.hatenadiary.com

歩き遍路で立江寺から取星寺へお参りされる方、土佐古道を歩いてみませんか?
この付近の位置関係、写真上方に立江寺、左下に取星寺を確認出来ます。
立江寺から道を南に進み尾上神社を目指し歩きます。

文化11年(1814)の岩脇村絵図(徳島大学付属図書館公開Webより引用)
取星寺は左の山に、中央上部の阿千田越えと思われる所に立江村、宮倉村方面の記載あり

尾上神社下から旧土佐街道が残っており、地元「おやじ塾」で整備されているとの事です
f:id:boianuf:20180607092650j:plain

山道にかかる阿千田越は左の舗装道ではなく標識の有る下の畦道です
阿千田越えの峠から阿千田へ抜けるのがへんろ道です、峠の橋から新道を行くのは近道だがおすすめは峠を下って
f:id:boianuf:20180601113026j:plain
分岐にある道しるべ 「右 志ん志こく 二丁」=218
今から約200年前の文化11年(1816)、当時の取星寺住職快典上人(京都仁和寺より赴任)が40歳の厄除け祈願と弘法大師1,000年大法事の記念事業として発願、智道上人から弟子の尊甚上人まで師弟三代に亘り、25年後に完成する。最初に四国霊場を巡拝して実地踏査し、坂の上り下り、札所の里程を縮尺して配置、各霊場の砂を持ち帰って本尊の下に埋め、巨大な岩石を組んで岩屋を造り石仏を安置、岩石を動かして道路をつけるなど難工事でありました。また200体にも及ぶ本尊及び大師像の寄進を募りに東奔西走したことも偲ばれます。奇岩を取り入れての構造、絶妙なる配置、各札所に本尊と大師像の二体を安置するなど他に類例なく霊蹟で霊験著しく全国新四国の濫觴として名高い。
f:id:boianuf:20180601150223j:plain
阿千田峠から新四国巡拝道(文化財)経由で取星寺に行くには自然石の道しるべのところを右へ
200年前に取星寺の住職が3代、25年かけて造られた新四国道です
新四国巡拝道は展望台にて合流します

「おやじ塾」のAさんが草刈機で刈ったあとを西春日野の友人Hさんがハサミで刈り込み
今日は友人のSさんと二人でテニスコート下の道を草抜きされているはずです。

しばし進むと沢道になる(滑りやすいので注意)幅広く綺麗にしてあり気持ちよく歩ける
この付近には新四国88ヵ所の石仏が随所に有り地元の人で綺麗にされています。

頂上付近のところの新道に橋がかかっており登ると小さな公園があります
途中に表示のあった○○メータはこの公園までの距離との事です

この新道を西へ道なりにしばらく進んで行くと見晴らしの良い岩脇公園の展望台に出ます
boianuf.hatenadiary.com
f:id:boianuf:20180601153355j:plain
すこし行くと取星寺境内配置図の看板写真

このルートは阿千田越と新道を使うため取星寺へのぼりの階段は有りません
取星寺から20番の鶴林寺方面へ向かうには階段を下ります。

2013.06.25 追記
☆ 岩脇村記事より引用
当村は那賀川による河川交通の便に恵まれ、早くから那賀奥からの木材・炭・薪・茶などの
産物の集散地として発達した。 那賀川の渡船により対岸の南島村に通じ、
また北は羽浦山脈の阿千田越を経て徳島に通じる主要街道(土佐街道)もあり、
水陸交通の要路として寛文年間には市街地を形成して出店と呼ばれていた。
のちには酒造業も発展,寛政年間には100石内外を醸造した。
しかし土佐街道は山越えの不便さから、当村の札場から中庄村・宮倉村の一里松を経て
田野村に通じ、徳島に至る道筋にかわり、明治9年に古庄村と南島村の間に新しく渡舟場が
創設されるに及び、水陸交通の要衝は古庄村の渡し場付近に移っていった。
寺院に真言宗取星寺がある。 正徳5年に没した増運上人の中興で、隣接する産土神妙見宮の
別当寺であった。 妙見宮は明治3年明現神社と改称した。 
取星寺・明現神社ともに創建について弘法大師伝説がある。
ほかに、岩脇城主三枝一族の菩提所乗雲庵、蘭学者美馬順三の墓がある紫雲庵、
また現在は廃庵となっている長満庵・桜庵・行基庵、神社は天神社・天日神社・秋葉神社
八坂神社などがある。
なお当村出身者の蘭学者美馬順三は徳島藩家老池田家の臣美馬与三右衛門の第4子として
生まれ(美馬家系図)、京都に遊学後文政6年長崎で蘭館医シーボルトの門に入り、
賀川玄悦・玄廸の「産論」や石坂宗哲の「針灸知要一言」をオランダ語に訳して
「バタビア学芸協会雑誌」に掲載され、また「日本の産科」も「ドイツ産科年報」に紹介され、
日本書紀」の神代巻・神武天皇紀の大意を蘭訳してシーボルト著「日本」に引用されるなどした。
さらに種痘法を日本語訳して「牛痘接法」を著すなどし、鳴滝塾の塾頭として活躍したが、
文政8年コレラにより31歳で没した。 ☆