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88箇所四国歩き遍路1〜43で紹介してない写真を逆順に載せてゆきます
Shikoku pilgrimage 88 and bangai 20,BACK TO THE ICHIBAN

☆☆
87番長尾寺 ⇒ 86番志度寺 ⇒ 85番八栗寺 ⇒ 84番屋島寺
☆☆


4月8日
87番長尾寺 ( Fudarakuzan Nagaoji, 87th of shikoku 88 )
H36m
第87番札所 補陀落山 長尾寺 (ふだらくさん ながおじ)
本尊  聖観世音菩薩 (せいかんぜおんぼさつ) 
真言  「おん あろりきゃ そわか」
開基  行基菩薩
宗派  天台宗 
御詠歌 あしびきの やまどりのをの ながをでら あきのよすがら みなをとなへて
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☆ 志度をあとに約七㌔の道をたどると長尾の古い町並になる。寺は町中にあり、弘安六年と九年の銘のある石の経幢を拝みながら仁王門を入ると、広い境内に本堂、右に大師堂、左に護摩堂と常行堂が建ち並ぶ。天平十年(七三八)行基菩薩が巡錫の折、道端にある楊柳をもって聖観世音を刻み、小堂を建てて尊像を安置したのが寺のはじまりという。弘法大師は入唐するにあたりご本尊に祈願し、護摩修法された。このとき人々に護摩符を授け、それ以来「大会陽福奪い」の行事が今日までつづいている。大師は唐より帰朝してから大日経を一字一石に書写して入唐の大願を成就したことを謝し、万霊の供養塔をたてて修法された。この供養塔は現在護摩堂の前にある。後に天長二年(八二五)には伽藍が整備され、永仁六年(一二九八)伏見天皇の勅により開扉法要が営まれ、天和元年(一六八一)真言宗から天台宗に改めている。住職の説法は人気がある。 ☆ (四国ネットより)

87番長尾寺の境内 13:59 08.04.2013 Precincts of the Nagaoji temple

87番長尾寺の境内 13:59 08.04.2013 Precincts of the Nagaoji temple

87番長尾寺の境内 13:42 08.04.2013 Precincts of the Nagaoji temple

87番長尾寺の山門(鐘楼門)とわらじ 13:41 08.04.2013 Sanmon(Bell gate tower) and Straw sandals

87番長尾寺の山門 13:41 08.04.2013 Sanmon of the Nagaoji temple
☆☆


4月8日
86番志度寺 Fudarausan Shidoji, 86th Shikoku 88)
H2m
第86番札所 補陀洛山 志度寺 (ふだらくさん しどじ) 
本尊  十一面観世音菩薩 (じゅういちめんかんぜおんぼさつ) 
真言  「おん まか きゃろにきゃ そわか」
開基  藤原不比等
宗派  真言宗善通寺派
御詠歌 いぎさらば こよひはここに しどのてら いのりのこゑを みみにふれつつ
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☆ 仁王門を入ると左に海女の墓がある。謡曲「海士」で知られる伝説によれば、天智天皇のころ、藤原不比等が亡父鎌足の供養に奈良興福寺の建立を発願した。唐の高宗皇帝の妃であった妹はその菩提にと三つの宝珠を船で送ったが、志度の浦で龍神に奪われた。兄の不比等はあきらめきれず、姿をかえて志度の浦へ渡り、土地の海女と夫婦になり一子・房前をもうける。やがて海女は観世音に祈願し、夫とわが子のために命を捨てて龍神から宝珠をとりかえす。不比等は海辺の近くに海女の墓と小堂をたて「死度道場」と名づけた。後に房前は母の追善供養に堂宇を増築し、寺の名を志度寺と改めるのである。寺伝によれば推古天皇の三十三年に志度の浦に楠の霊木が漂着し、園子尼がこの霊木で観世音の尊像を刻みたいと念じたのがそのはじまりという。現在の本堂・仁王門は寛文十年(一六七〇)の建立。五重塔は昭和五十年、大阪に出て成功した当地出身の竹部二郎氏の建立。☆ (四国ネットより)

86番志度寺の山門 11:06 08.04.2013 Sanmon of the Shidoji temple
☆☆


4月8日
85番八栗寺 ( Gokanzan Yakuriji, 85th of Shikoku 88 )
H222m
第85番札所 五剣山 八栗寺 (ごけんざん やくりじ) 
本尊  聖観世音菩薩 (せいかんぜおんぼさつ) 
真言  「おん あろりきゃ そわか」
開基  弘法大師
宗派  真言宗大覚寺派
御詠歌 ぼんのうを むねのちかにて やくりをぼ しゅぎゃうしやならで たれかしるべき
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☆ 五剣山の名は五つの峰が剣の尖のようにそびえ立っていることからつけられたが、元禄十一年(一六九八)の豪雨で西の峰が半分に割れ、宝永三年(一七〇六)の地震で東の峰が崩れ、現在は四峰になっている。山の中腹の寺までケーブルもある。仁王門を入ると正面が本堂で、弘法大師作といわれる本尊聖観世音が安置されている。寺は天長六年(八二九)の創建で、当初は千手観世音の小像を安置し、千手院と称していた。弘法大師は幼少のころよりこの山に登り、土で仏像などをつくられたが、後に求聞持の法を修されているとき五柄の利剣が虚空より降ってきたので五剣山と名づけ、山項からは八ヵ国が見えるので八国寺とし、大師が入唐前に植えた八個の焼き栗が、帰国後ことごとく生長繁茂していたので八栗寺に改めたという。本堂左手前の聖天堂には弘法大師作の歓喜天がまつられ、商売繁昌を願う信者で賑わっている。白みかげ石で知られる庵治の町が山麓にある。☆ (四国ネットより)

85番八栗寺の本堂と五剣山 09:23 08.04.2013 Gokenzan

85番八栗寺の本堂 09:23 08.04.2013 Main hall of Yakuriji temple

85番八栗寺の本堂を横側を鐘楼下から 09:23 08.04.2013 Main hall of Yakuriji temple

歓喜天をまつる聖天堂と納経所(左)09:22 08.04.2013 Shotendo and nokyosho

85番八栗寺の地蔵と地蔵堂 09:22 08.04.2013 Zizo

85番八栗寺の大師堂と多宝塔 09:22 08.04.2013 Daishihall and Two-story pagoda

手水と札所 09:04 08.04.2013 Chozu

二天門を入り85番八栗寺の境内、正面が本堂で左手が納経所 09:03 08.04.2013 Precincts of the Yakuriji temple
☆☆


4月8日牟礼町牟礼のうどん本陣山田屋

大きなうどん屋です  08:23 Udon restaurant
☆☆


4月8日
84番屋島寺 ( Nanmenzan Yashimaji, 84th of Shikoku 88 )
H286m
第84番札所 南面山 屋島寺 (なんめんざん やしまじ) 
本尊 十一面千手観世音菩薩 (じゅういちめんせんじゅかんぜおんぼさつ 伝、弘法大師作 
真言  「おん ばざらたらま きりく そわか」
開基  鑑真和上 
宗派  真言宗御室派
御詠歌 あづさゆみ やしまのてらに けふでつつ いのりをかけて いさむもののふ
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☆ 高松市街へ入ると紫雲山の東麓に、高松藩松平家の別邸だった栗林公園があり、街中からは左に大きく横たわる屋島(標高二九三㍍)が近づいてくる。山上は平らで南北二つの嶺に分かれ、屋島寺は南嶺にある。天平勝宝六年(七五四)来日した唐僧鑑真は大宰府を出発して難波へ向かったが、その途中屋島へ立寄り、北嶺に普賢堂を建て、その弟子恵雲律師が堂宇を整備して住職となった。これが寺の草創である。弘仁六年(八一五)には弘法大師が登山し、勅命によって一夜のうちに本堂を建立し、自刻の十一面千手千眼観世音を本尊として安置した。その後山岳仏教霊場として盛んであったが、戦乱で衰退し、藩主の援助などで再興されている。仁王門から天暦年間に明達律師が二天像を安置したという二天門を入ると、正面が朱塗の本堂、右に大師堂、平家供養の鐘で知られる梵鐘がある。弘法大師ゆかりの獅子の霊巌、源平の古戦場「壇ノ浦」などの古跡もある。☆ (四国ネットより)

84番屋島寺の東門から境内を見る 07:17 08.04.2013 Precincts of the Yashinaji temple

84番屋島寺の納経所(左)と大師堂 06:46 08.04.2013 Daishi hall and Nokyosho of the Yashima temple

84番屋島寺の四天門を入り正面よりさらに右手に鐘楼 06:45 08.04.2013 Precincts of the Yashinaji temple

84番屋島寺の四天門を入り正面より右手 6:45 08.04.2013 Precincts of the Yashinaji temple