四国88箇所 🚙 35 明石寺

四国88箇所車遍路 🚙 35 明石寺

Shikoku pilgrimage 88
2014-10-29
43番明石寺  ( Genkozan Meisekiji, 43rd of Shikoku pilgrimage 88 ) 
Above sea level 271m
第43番札所 源光山 明石寺 (げんこうざん めいせきじ)
本尊  千手観世音菩薩 (せんじゅかんぜおんぼさつ)
真言  「おん ばざら たらま きりく そわか」
開基  正澄上人
宗派  天台宗寺門派
御詠歌 きくならく せんじゅふしぎの ちかいには だいばんじゃくも かろくあげいし
所在地 愛媛県西予市宇和町明石201
f:id:boianuf:20190617124806j:plain
☆ 歯長峠を越えて約十五㌔。宇和町よりは約五㌔ほど、静寂な山地へ入る。仁王門からは、山を背景に唐破風造りの本堂がみえる。欽明天皇の勅願により、円手行者が千手観世音を安置し、七堂伽藍を建立して開創し、後の天平六年(七三四)には寿元行者が、紀州熊野より十二社権現を勧請して十二坊を建立し、修験道場として法灯を伝承した。やがて弘仁十三年(八二二)弘法大師が巡錫し、嵯峨天皇の勅願により荒廃した伽藍を再興して霊場に定められた。また、建久五年(一一九一)には源頼朝が池の禅尼の菩提のため阿弥陀如来を造顕し、経塚をきずいて堂宇を再興し、山号を「源光山」に改めている。現存の御堂は宇和島藩主伊達氏が寛文十二年(一六七二)に建立したもの。第三十五世の尊栄が西園寺氏と縁戚関係を結んでから、寺は明石家代々の世襲による管理となった。次の大宝寺への途中、大師が橋の下で一夜をすごされた番外十夜ヶ橋がある。☆ (四国ネットより)

31号から29号へ237号右折し松浦組左折して43番への予定で走り出したが、歯長峠の道路工事時間帯全面通行止めに遇い引き返して高速道路を使って明石寺へと向かった駐車場(無料)は寺の石段下が近い

43番明石寺の駐車場からの参道

43番明石寺の山門

手水舎は山門の左にあります

本堂への石段

大師堂側から見た本堂

大師堂前の夫婦杉

左が本堂、右が大師堂

山門

延命地蔵

43番明石寺の境内左から本堂、大師堂、鐘楼

43番明石寺の本堂

43番明石寺の本堂

43番明石寺の大師堂

大師堂からの43番明石寺の境内

43番明石寺の鐘楼

大師堂前の夫婦杉

本堂からの境内

本堂拝殿の彫物

納経所

壇上の本堂

山門の大わらじ

山門の大わらじと牛馬用の大わらじか?それとも土を運ぶもっこ

山門脇

境内の熊野神社

43番明石寺の納経、墨書き御朱印と開創1200年記念スタンプ Osamekei of Meisekiji with the retractor 1200 Memorial special stamp.

43番明石寺の本尊御影 Principal image card of Meisekiji temple is usually black and white. The red card is the retractor 1200 Memorial special.

☆☆
2013 あるき遍路ブログ記事はこちらから
boianuf.hatenadiary.com
2016 逆打ちくるま遍路記事はこちらから
boianuf.hatenadiary.com
☆☆



43番明石寺での納経を終え56号を北上、途中は大洲の城や十夜ヶ橋永徳寺を通り過ぎて宿泊先の古い街並みの残る内子町

内子町恵比寿神社

内子座の幟

内子座の幟

内子座の木戸

内子座の今の受付、現在も歌舞伎や演劇に使われておりたくさんの人が観劇に訪れると言うことでした。内子座の見学は催しが無い時にガイド付きで出来ます。

内子座の受付と木戸(旧入り口)

内子座、木蝋や生糸等の生産で経済的にゆとりのある時代に、芸術、芸能を愛してやまない人々の熱意で生まれた木造の劇場。農閑期には歌舞伎、人形芝居、落語、映画等の出し物が内子座を彩り、人々の心の糧として大切にされました

内子座の舞台で法被を着ての記念撮影

内子座の舞台からの客席、回り舞台やすっぽん、奈落もあります

内子座の花道から舞台、右は客席

内子座はガラス窓

図書館&ビジターセンター

児童館(旧内子高等小学校)

商いと暮らしの博物館、薬屋の看板

内子の民宿シャロン

内子の民宿シャロン 〒791-3301 愛媛県喜多郡内子町内子1619  0893-44-3339

10月29日の夕食、カキフライ定食、民宿シャロンは1階がレストランで、階上が民宿です。夕食は一般のお遍路宿のように全員決まった食事ではなく宿泊客がレストランのメニューの中から好きなものが選べます。 シャロンのオーナー土居眞一郎さんのお話では、内子町は和ろうそくと縫製関係で栄えた町であったが時代の流れで沢山あった縫製関係は仕事が中国へ移ってしまいさびれたと言うことです。シャロンも階上を宴会が出来るようにしていたが縫製関係者が激減し宴会場を利用する客も減ったので、民宿を始めたととの事でした。

10月29日の夕食、昔風のオムライス

30日の和朝食

30日の洋朝食