生駒聖天 宝山寺  2

2014-12-02

宝山寺後半
宝山寺歓喜天(聖天)拝殿前から左の石段を上ると、文殊堂、常楽殿、観音堂、遙拝所、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)、延命水、更に石段を上ると正面に多宝塔、そこを右折れして石段を上る途中に弘法大師堂があり個々の大師像はなにかしら微笑んでおられるお顔でした。大師堂から奥の院へのかなりの数の石段をかなり上ると奥の院に着きます。奥の院には奥の院本堂、開山堂と開山廟、大黒堂、大黒天をお祀りしている大黒堂の横あたりが、宝山寺の岩場の弥勒菩薩が祀られているあたりか?

宝山寺歓喜天拝殿前からさらに石段をのぼると文殊

弘法大師堂前からの奥の院への参道

宝山寺奥の院への石段参道

宝山寺奥の院への石段参道

左は開山堂

奥の院手水舎

手水舎と奥の院本殿

奥の院本殿、奥の院本殿右横から石段を上ると大黒堂

奥の院大黒堂の扁額は大黒天

奥の院大黒天前からの眺望は奈良方面

奥の院本殿

奥の院本殿

左正面は開山堂

奥の院から参道を下る

弘法大師堂から参道を少し下ると右手に多宝塔

宝山寺の多宝塔

多宝塔から少し下ると右手に常楽殿、正面は遙拝所(岩場は落石危険のため入山できない)

常楽殿上の奥の院参道からからの宝山寺境内

文殊

お参りを終えケーブルで下山
地下鉄で学研登美ヶ丘へ移動し、翌朝0418分発の関空行リムジンバスを予約しチケットを購入
ショッピングセンターで買い物(この間に家に帰り車を持ってくる)フランス人女性から夕食時のお接待にボルドーのワインを貰った。昼食は近くの回転ずし、フランス人女性は興味津々で見ていたが、寿司は味が無いとのコメントであった。(ご飯に生のマグロやサーモンだから当然だろう、これまでドイツ人やロシヤ人を回転ずしへ招待し美味しいと言われたが、フランス人には味気なかったようです)夕食は最近家の近くに出来た小さなパン屋でフランスパン数種類を買って来て、生ハムとグリーンアスパラにミックスサラダ菜(生ハムに野菜をまいて食べる)とスパゲティーボロネーゼ(ミートソース)とフランスパンに差し入れのボルドーワイン。 久しぶりの本格的なフランスパンに職人はフランスで修行をして来たのか?美味しいと喜んでもらえた。スパゲティーボロネーゼを食べた後のお皿に残っているソースもパンできれいに拭って食べ、生ハムワインに合うと喜んでもらえた。
スペインの国境から7kmに住む65歳の彼女は、Saint-Jean-Pied-de-Port(サン.ジャン.ピエド.デ.ポール、の町)で巡礼宿をしている(巡礼宿とは世界遺産スペインはサンティアゴへの巡礼者用)10月20日から3月20日はクローズして今回、四国88箇所遍路と熊野古道を歩いた。12月3日〜10日までは沖縄、沖縄は暖かいので泳げると思ってたが風が強く寒かったとメールがあった。 青森の友人が帰国する18日まで時間があるのなら、青森で受け入れると言ったくれたので沖縄に居るフランス人女性にメールで打診すると行ってきたいとの事。11日から青森のビッグハウスに3泊して雪や、ねぶたを楽しんで18日に成田から上海経由で帰って行った。

世界遺産大ヤコブ(=サンティアゴ)巡礼とは:キリストの弟子のひとり聖大ヤコブ(=サンティアゴ)。彼の遺骸は、1世紀ころに殉教して以来ずっと行方不明のままでしたが、奇跡的に800年近く経った後、サンティアゴ・デ・コンポステラの地で見つかります。この奇跡の物語がきっかけとなって、以後絶えまなく巡礼者の列が続くようになり、ひいてはサンティアゴは、ローマやエルサレムと並ぶキリスト三大聖地のひとつとなりました。そしておよそ1,000年前、世紀末思想が世を覆っていた時も、イスラム勢力イベリア半島を駆逐しはじめた時も、精神的な求心力となって人々を奮立たせる大きな役割を担ったと言われています。
ロマネスクの時代から今日に至るまで、数ケ月、時には数年を費やして、信徒がこの地を目指しました。最盛期には年間50万人以上の人々が行交ったそうです。生活を捨て、あらゆる階級の人々が、等しく自分の足を使って向かいました。その道は、主に4つありました(上記地図をご覧下さい)。全長約900kmにも及ぶこの巡礼の道は、途中にピレネー山脈をはじめとする難所が幾箇所もありましたが、だからこそ一層、誇りと信仰心が高まったと言えます。
現在、サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼の道は、その歴史的意義より、全行程が世界遺産に登録されています。
サンティアゴ巡礼の道しるべのように、行く先々で我々に方向を示してくれるホタテ貝のマークを見かけます。また、巡礼路を歩いている人々がホタテ貝のペンダントをぶら下げている光景にも度々遭遇します。何故でしょうか?
昔はこのホタテ貝をお皿代わりに、食べ物を恵んでもらったことから、この必需品・ホタテ貝が巡礼者のシンボルになったと言われています。(ユーラシア旅行者のHPより引用)