壱岐 4

ミステリーツアー2日目、3月28日、3か所目は猿岩から湯の本温泉経由8.3km(23分)

県道174号線沿いにある壱岐で2番目に大きい古墳、鬼の窟(おにのいわや) へ

鬼の窟古墳(国指定史跡)は、標高100メートルほどの丘陵尾根部に築造された島内で2番目に大きい円墳です。古墳の規模は、直径45メートル、高さ13.5メートルです。古墳は墳丘の裾部が急傾斜になっています。石室は前室・中室・玄室の3室構造、両袖式の横穴式石室で、全長16.5メートルの長さです。島内で最大の全長を誇る石室が特徴です。【出土代表遺物】 新羅土器・鈴・鉄鏃(てつぞく) 等  (壱岐市観光連盟HPより  http://www.ikikankou.com/wp/?p=192

長崎県指定史跡/鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)  1基
昭和36年(1961)11月24日指定
所在地:長崎県壱岐市芦辺町国分本村触字磐屋森1206の1番地/指定面積:1,577m2
古墳とは、古墳時代(およそ3世紀後半〜7世紀頃)に造営された小高い墳丘を持った 墓のことである。基本的な形態は円墳・方墳・前方後円墳などあるが、鬼の窟古墳は、墳丘の直径が45メートル、高さが13.5mの県内最大級の円墳である。調査によって出土した遺物の製作年代と石室構造および形態的な特徴から、本古墳は6世紀末に築造され、その後、7世紀後半まで追葬が行われたと考えられる。遺骸を埋葬するための石室は、羨道部から中へ入り、前室・中室を経て主な埋葬空間である玄室へと至る三室構造の両袖式横穴式石室であり、石室を巨大な玄武岩で積み重ねて築き上げていることから「巨石墳」と呼ばれることもある。石室は全長16.5mで、玄室の平面形は一辺約3mの正方形に近く、床面から天井までの高さは3.3mである。中室の規模は長さ3m、幅2.5m、高さ1.9m、前室の規模は間がさ3m、幅2.3m、高さ1.9mである。玄室が平面方形で6世紀後半に築造された対馬塚古墳・双六古墳と比べると天井が低く、前室と中室の天井石の高さがそろっているのが特徴である。平成元年度に崩壊した石室入り口側壁と天井石の修復に際して発掘調査が行われたが、石室からの出土遺物は須恵器(蓋坏(ふたつき)・𤭯(はそう)・壺)や韓国の新羅土器など小数であった。この古墳の存在については古くから知られており、江戸時代文久元年(1861)に編纂された『壱岐名称図誌』には、鬼の窟古墳について「笹窟  巳午向屋櫃(やびつ)鬼屋ともいう。大路より33間計り(ばかり)にあり。・・・・件の窟、国人はさらなり、諸国の客人見に来る所にして、石面に楽書き多し。」とあり、その当時から各地より見物客がたくさん訪れて落書きが多かったことが記載されている。壱岐の島では現在260基ほどの古墳が確認されているが、それらの古墳のほとんどは6世紀後半以降に築造されたもので、6世紀末以降になると古墳の数が激増するという現象が認められる。本古墳もそのような古墳のひとつであり、その規模の大きさから壱岐を治めた当時の有力者が埋葬されているものと考えられる。 平成20年3月/長崎県教育委員会壱岐市教育委員会 (説明板より)

鬼の窟の中を順番に見学

鬼の窟の中を順番に見学するツアー客

一番奥の玄室には石棺があります

手前から前室・中室・玄室の3室構造が良くわかりました。


4か所目のスポットは鬼の窟からバスで県道を東進、国分寺跡、へそ石を経て1.2km(3分)

月読神社へ移動

月読神社の道路標識

月読神社の鳥居と石段

急勾配な石段でした

石段上には社が見えます

石段途中に手水舎があり清めて社前に上がります

お参りを終え下りは神社右手から坂道があり鳥居前へと下りました

古事記では伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が天照大御神の次に産んだのが月読命(つくよみのみこと)とされている。京都の月読神社は、487年壱岐の県主(あがたぬし)の先祖忍見宿祢(おしみのすくね)が壱岐から分霊したもので、ここは神道の発祥の地とされる。県道172号に面した鳥居から、桧林の中を急な石段の参道がつづく。鬱蒼として昼なお暗く神秘的なたたずまいを見せる。 (壱岐市観光連盟HPより  http://www.ikikankou.com/wp/?p=192 ) この日訪れた時、山の斜面はきれいに下刈りされていて明るかった。

月読神社由緒(神社社務所の由緒より)
<御祭神>(右)月読命・読むというのは月齢を数えることであり、日を数えるのは暦(太陰暦)である。したがって月読と、稲作、潮の満ち干とは大変深い関係がある。(中)月夜見命・月夜というのは単に月のことである。月は夜出るわけであるから月夜と言った。見は心霊を表す。従ってこの見は月を神格化した。(左)月弓命・三日月は弓の形をしている。そこから月読が月弓に音が変化するのに伴って漢字も弓が当てられた。
<鎮座> 鎮座年数は不詳であるが、顕宗天皇三年(487年)にはすでに存在していた。
<御神徳> 一・生命の誕生(安産・健康・病気平癒)一・漁業の繁栄(航海の安全・大漁)一・農業の繁栄(自然界では、旧暦の暦と共にある)一・商売繁盛

<月読神社縁起> 月読神社縁起より
一・顕宗(けんしょう)天皇三年(487年)阿閉臣事代(あへのおみことしろ)という官史(かんり)が天皇の命を受けて朝鮮半島任那(みまな)に使いに出る。その際に人に月の神が神がかりしまして「土地を月の神に奉献せよ、そうすれば良いことがあろう」という信託があった。それを朝廷に奏したところ、これを受けた朝廷は壱岐県主(いきのあがたにし)の押見宿祢(おしみのすくね)に命じて、壱岐の月読神社から分霊させ京都に祀らせた。
一・舒明天皇二年壱岐の公乙等(きみおと)を筑紫の伊都に遣わし神石を求め、一つを京都の月読神社に納める。この石はその昔、神功皇后が月の神の教えによりお産を延ばされた事で「月延べ石」と名づけられた。その石は今伊都の鎮懐石八幡宮壱岐の月読神社にあると言われている。
一・文武天皇大宝元年初めて行幸あり、神石をご覧になられ、壱岐古麻呂に命じて御幣を奉納し神税を古麻呂に給う。
一・宝亀三十三年暴風雨で木や家が倒れた。これを占うと月読神の祟りであった、そこに伊部正美が奉じ、神島の大中臣清麻呂を山城・壱岐・伊勢にある月読神社に遣わして神の怒りを鎮めた。
一・國分郷古木村清月に社在り、延宝四年(1692)6月朔日建立拝殿の内に石の御殿有り、拝殿は西北西向きで茅葺き梁行き二間、桁行二軒半である。境内は、東西二十五間余り、南北三十一間余り、周囲一町十七間余り、山中参道十六間。祠管榊原主殿藤原正益、定祭九月二十三日云々。
一・式内大社の例により、神階を進められる。
一・霊元天皇(れいげん)延宝四年六月朔日、松浦肥後守従五位下朝臣鎭保、石祠及び木鏡を寄進。(木鏡の銘)には、「奉ル備二十四座ノ内月読神社御正體木鏡一面」とあり。
壱岐氏の居館跡> 月読神社の御祭神「月読命」の子孫押見宿禰(おしみのすくね)は壱岐氏(壱岐の県主/いきのあがたぬし)の遠祖である。下の鳥居から西へ約500mの所に国片主神社(くにかたぬし、拝殿が壱岐氏の居館跡といわれている)がある。壱岐七大神社、五大天神として多くの人々の信仰がある。



バスは梅の木ダムを横に見ながら3.4km(14分)芦辺港へ移動、
昼食会場はイオン横の「味処うめしま」へ

芦辺港のイオン横の「味処うめしま」

「味処うめしま」は、牧場直営のレストランとして鮮度のよい良質な肉を安全かつ安価に提供しており、壱岐牛の精肉店も併設しています

「味処うめしま」では壱岐牛の焼肉定食

壱岐牛肉と野菜は玉ねぎ、カボチャ、ナス、キャベツ、ピーマン

香の物、サラダ小鉢、焼き肉のたれ

味噌汁は麦味噌が使われて いました

香の物、サラダ小鉢、焼き肉のたれ

鉄板で焼き肉、
ツアーのランチにしては豪華で肉も野菜も美味しく大満足

「味処うめしま」の箸袋
[:W350]
壱岐牛の幟

店のメニュー
店には俳優や歌手の写真と色紙がたくさん飾ってありました。