離島ミステリーツアー 5

久米島
1月16日の離島ミステリーツアー、久米島の10ヶ所スポットを巡る予定

この日のサイプレスリゾート久米島の朝食はバイキング
ご飯に昆布の佃煮、味噌汁、味付け海苔、島豆腐、シラスおろし、納豆、温泉卵、

焼き魚、筑前煮、ほうれん草、スクランブルエッグ、ベーコン、ソーセージ、漬物

サラダはレタス、キュウリ、紫玉ねぎ、黄ニンジン、トマト、紫芋チップ

サイプレスリゾート久米島のカフェとシンリ浜

この日の天気予報は幸いにも外れて晴れてきそうです

最初の観光スポットは、島の北西部の海岸にあるミーフガー、
大きな穴が開いている奇岩で、女性のシンボルとされています。

ガイドマップの位置で示されたミーフガー所在地

地学的に見るとミーフガーは一枚の岩に穴が空いているのではなく、
穴の上に走っている亀裂を境に海側の岩が石灰岩、陸側の岩が凝灰角礫岩という
岩石で400万年以上前にできたものであり、この2つはそれぞれ違う時代に
できた岩。海底にあったこの地帯が陸地化する過程で潮や風に削られ、
固い部分だけが残り現在のミーフガーになりました。

ミーフガー手前、左側のくぼ地には石灰岩層の下に赤茶色の層がありますが、
これも前述の凝灰角礫岩です。しかし、上に乗っかっている石灰岩は、
ミーフガーのそれとは違い、比較的新しくできたものです。
(イリビシ石灰岩と呼ばれ、約4000年前にできたと言われています)
太古から延々と続く地球の営みが感じられます。
(以上、久米島町役場のパンフレットより引用しました)

子宝に恵まれない女性がこの岩に拝むと、ご利益がある、と古来から
言い伝えられている人気のパワースポットだそうです。

岩穴の下まで歩いてゆくミステリーツアー客、その穴の向こう側は海

割れ目左側の岩は石灰岩
割れ目右側の岩は凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)
= 直径32mm以上の火山岩と大量の火山灰が海底に堆積してできた岩石。

ミーフガー駐車場に咲いてた花

軍艦岩、普段は打ち寄せる波が荒く軍艦岩から海水が滝のように流れるとの事でした

ミーフガー駐車場から具志川城跡を遠望

2か所目は具志川城跡、バスの窓ガラス越しの具志川城跡
修復中で部分的にネットやブルーシートで覆われていました。

国指定史跡、具志川城跡
具志川城は15世紀初め、島外から来た真達勃按司(まだふつあじ)によって
築かれたといわれ、城内は四つの郭(曲輪)に分けられ、郭内は低い石垣で
仕切られています。
城壁は安山岩の平石積み、石灰岩又は安山岩を混ぜた積み方に特徴があります。
真達勃按司(まだふつあじ)の子、真金声按司(まかねごえあじ)の時に
伊敷策(ちなは)城主、伊敷索按司(ちなはあじ)の次男
真仁古樽按司(まにこだるあじ)によって落城され、
真金声按司(まかねごえあじ)は沖縄本島南部喜屋武岬(きゃんみさき)
近くに同名の具志川城を築いたと伝えられます。 
按司(あじ)= 領主的豪族のこと

具志川城跡拡大図

ガイドから具志川城跡の説明を受けるミステリーツアー客

三の郭の城門前の祭祀場跡はノロが祈りをした場所

三の郭の城門前からのミーフガー

三の郭の城門跡の石垣

三の郭の城門内

三の郭の城門内、元および明代(14〜15世紀)の青花(染付)磁器や
竜泉窯系青磁、中国華南産の黒釉など、中国を始めとした海外からの多くの
輸入陶磁器をはじめとして、古銭、金属製品、あるいは地元産の
グスク時代の物などが出土している。

四の郭へと導かれ

四の郭から一の郭、二の郭も整備されていた
ミステリーツアー客はアドベンチャータイプの人がが多く一の郭まで
どんどん上がっていた。

具志川城跡に咲くスミレ

駐車場前の歌碑 あおりやへか節 「おもろさうし」 十一巻五八二
一 くしかわの またまうちは 
  けらへて よく けらへて
  まさり ゆわる せたかこ
又 かなふくの またまうちは けらへて
又 たうの ふねせに こかね もちよせる くすく よく けらへて
又 やまと ふねせに こかね もちよせる くすく


おもろとは約12世紀から17世紀頃にかけて、奄美沖縄諸島で謡われて
きたと考える古謡歌で、これを首里王府が採録し編纂したものが 
「おもろさうし」 です。

あおりやへか節
一 具志川の 真玉内は 
  げらへて 良く げらへて
  勝り ゆわる 精高子
又 金福の 真玉内は げらへて
又 唐の船 ぜに 金 持ちよせる ぐすく
又 大和の船 ぜに 金 持ちよせる ぐすく 

説明、
この謡は、具志川城と城を築いた按司を称賛したオモロで
「具志川城を見事に築いた優れた按司よ、この城は唐(中国)の船や
 大和(日本)の船が酒や黄金を持ち寄せるすばらしい城だ」と言う
意味です。具志川城が交易を行い栄えていた様子がうかがえます。
城下海岸に大和泊と称する入江があり、城内外からは唐の陶磁器片も
採集されることから、このオモロは往時の具志川の社会の賑いを具体的に
歌ったものと考えられます。