回想録 47歳の転職

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喜寿迎えたこともあって、回想録を書いてみようと思いたち、1992年12月までの28年間務めた船井電機を退職した時期から書き始めることにした。船井電機が1988年ドイツ・リュネブルグ市に設立したビデオレコーダー工場にドイツ語が判るという事もあって工場長として派遣された。生産技術、製造、資材、技術、品質管理の専門職指導員と共に、1992年まで4年間ビデオ製造に務めたある日、船井社長から「ようここまでやってくれた、後はドイツ人に任せて日本に帰国してくれ、次は中国に工場を設立する」この時、1989年に渡独した家内、娘と息子がおり、子供たちはドイツの学校で就学中、帰国して日本の学校への転入は時期的に難しいと判断し、そのまま家族をドイツに残しておく訳にも行かず、再度渡独し家族と生活をする為、帰国前にドイツニュースダイジェストやIHK(商工会議所)の求職欄などにドイツで職を探していると投稿しておき、1992年8月11日(火)に単身で生駒の自宅に帰国した。住民票の転入、運転免許更新などを行い、8月17日(月)出社し配属先は電化部に決まった。数日間は慰労休暇を消化し、エアコンプロジェクトチームに参加したが、10月16日(金)総務部に退職願を提出し、作業服、社員証を返還した。退職に伴い決まりで持ち株会の保有株は返却、1000株の本株券は総務の島元さんが「上場するとか言っているけど、本株券を会社が買い上げするのは持ち株と同じ一株400円にしかならないので、ま~記念に持っておったら?」と言ってもらえた。8月29日(木)出社し、3階の高橋副社長や社内の各部署に退職の挨拶をした。同日社長室で船井社長から「きみ辞めるんか~ さみしいなるな~」「ドイツに残してきた家族のこともあり、ドイツで何と生活したいので」「ところで次の職場は見つかったんか?」「いいえまだです」「YUとMKどちらが悪いか」と聞かれたがこれには答えず。「会社にはいつまでの在籍や」「有給消化の終わる12月15日です」「ま~しっかりやってくれ、ご苦労さん」

1992年9月27日 単身帰国中

11月09日(月)東京の人材会社CDIの坂東さんから詳しい職歴書を送ってほしいと電話があり、職歴書を郵送しておいたところ。正倉院展の開かれている11月13日(金)の午前中、奈良市内でCDIの坂東さんと会った。11月27日(金)CDIの坂東さん同行で、東京日暮里にあったミヤチへ行き、西澤さん、城地さんと面接、この時に海外営業の桂さんが、CDIを介して採用するのですかと何かが歯に挟まったような話ぶりをしていた。日暮里のミヤチ営業所での面接の後、西澤さん、城地さんとミヤチの社有車に乗り、千葉県野田のミヤチ本社に案内され見学のあと車で東日暮里駅まで送ってもらい、この日は電車を乗り継ぎ生駒の家に帰宅した。採用の結果を待たず1992年12月1日(火)高森さんに車で送ってもらい、伊丹空港からフランクルと経由ハンブルグ空港へ22:15分リュネブルグの家族の元に到着した。12月24日(木)CDIから電話がありミヤチがドイツ子会社の社長に採用したいとの事ですがOKですか?と連絡があった。(人材会社CDIは東京にあったSONYの子会社、SONYが買収した、ドイツのテレビ製造会社WEGA(Waiblingen )にもCDIが入っておりました)(ミヤチも人材会社を介さずに、私を求職欄で見つけていたようですが、面接に同行したCDIを介することになり、これが後日私のヘッドハンティング費用としてドイツ現地法人へ請求書が送られてきたのには驚いた)