訃報連絡

F社OBの内田輝夫さんが本日22日のお昼12時にご逝去なされたとの
一報がありましたので連絡させていただきます。 84歳と9か月でした。

ご葬儀は以下の予定

・場所 日本キリスト教団 天満協会
 大阪市北区天神西町4−15 (TEL06-6361-6767)

・日時 (前夜式)10月23日(水)午後7時
    (告別式)10月24日(木)午前10時

※供花・香典はご辞退とのことです。

     

     在りし日の内田さん、 2011.02.19  10:48

     
     Skype会話の映像  2011.05.28  11:33

     
     Skype会話の映像  2011.05.31  17:47

内田さんの回想録です、 2012.12.01に頂いた原文のまま紹介します。
海外経験
最初は1945年陸軍輸送飛行隊に所属、任務で済州島、上海、桃園に行く。
沖縄陥落後も任務につく。
戦後1962年、香港に21日間出張、トランジスターラジオの生産技術指導。
九竜サイドのオーシャンターミナルにあつた税関の上屋(倉庫)で着荷品の
サーベイヤー検査の立会い。
交渉相手は、サッスーン財閥にいたバイヤーと、中国人のピーターウ一
(上海でモーターのコイル巻きをしていたが、中共に追われて香港にきた人、
後に香港の松下幸之助といわれた)
前者はユダヤ系商経路を涌じて手広い商内をしていた人、後者は前者と堂々と
張り合えるカをもった典型的な華僑企業家,
香港は岩盤上に出来でいる街、降った雨水はすぐに流れてしまう、
水源地はあるがすぐかれてしまって当時は厳しい水不足であった,
現在では中国深せんから大きなパイプで送水されているがそれまでは、
ホテルの水洗トイレに海水が使われていた。交渉相手の一人であった
エジーケル氏もついには、シャワーを使わせてくれと毎日のように私の部屋に
来ていたアメリカの海軍の特殊作業船かビクトリア湾上で海水を真水に蒸留して
政府機関に供給していた。
今でこそ、立派な建物が建ち並んでいるが、当時は中国から難民が続々と
密入国してきて、多くの人々が捕らえられて、留置施設に収容しきれない人々は
屋根も無い小学校の運動場に車座に座らされてポリスの監視下に置かれていた
今は山麓から頂士まで高級住宅街が建ち並んでいるが、
当時は、トタン屋根のバラック小屋が山肌にへばりつくように建っていた。
まだ市内に、怖い九龍城があって旅行者は近寄れなかった、至る所で道路工事が
行われて、岩盤を掘り砕くのに術中でダイナマイトが使用されていた、勿論毛布を
幾重にもかけて岩石の散乱事故を防ぐ対策はしていたが、その側を市民か平気で
歩いて通っている、ちょっと日本では考えられない風景が見られた、
今は九竜側と香港側は海底トンネルでつながっているが、当時の唯一の
交通手段はスターフエリーで、両岸を頻繁に往復して、物資の輸送手段として
重要な役割を果たしていた。渡し賃も安く香港ドルの10セント位だったと思う、
1階はもっと安く5セントくらいであったと思う,
この頃の香港は、まだ植民地政策の影響が強く残っていて、町中至る所で
欧米人の老若男女の姿が見られた ホテルも高級はぺニンスラー、マンダリン、
香港ホテル程度、我々が泊まれるクラスではアンバサダ一、インベリアル、
YMCAくらいしかなかった。
香港は中国に返還されその治世下にあり、制度上は中国と違った政策の下に
市民は、個人財産を保証されて生活をしているが、多くの人、又はその子弟が
カナダ、オーストラリア,英国本土に移り住んでいる。
1962年来数十回香港に行き、その移り変わりを見てきた、ある時期には、
中国進出の足がかりにと香港市内の目抜きのセントラル地区にオフィースを
構えて 日本の仕事と掛け持ちしで、3日に1度の割で出張した、ホテル住まい
では経費もかかるし、中国に進出するには落ち着く場も必要ということで、
生活の場を香港島化部のタイクーシン(大古城)にアパートを借りていた
セントラルから地下鉄で20分くらいのところで、駅にはヤオハンスーパ一も
あり日本食品も売られていた。
中国進出を目的に動いていたのだが、この頃の中国の経済は外貨保有
充分でなく、極めて不安定な状態であったが、大きな人口を持つ市場として、
皆進出のチャンスを狙っていた。私どもは中国本土で競争力のある
民生電子機器を造り、それを中国市場のみならす、われわれの欧米市場にも
売ろうという算段でワークしていた、其のため中国各地の、主として沿海
都市部の北京、天津、上海、広州、深センなどを重点的に国営企集と合弁の
交渉をしたが、当時の中国側との交渉は一担当部署だけの話で
広九鉄道1979.4 開通
それ迄 広州 → 深釧 → 羅湖 → 旺角
水 中 → HK
電気 HK → 中
は纏められなくて、会社の社長、バリバリの共産党員と、労働組合の役員、
行政からは、保安、共産党組織の幹部などか出席してやるので大変。
当時はそれら組織のすべての合意がないと何も進まない状態であった。
落ら着くところは外貨不足と、投資についての保証制度が整っていないという
事で、すべて難航した。
今では、広東省の中山、東莞、珠海に工場を作り、グループの主生産工場と
なっているが、競争力のある製品を作って、業績に大きな貢献をしている。
特に、イデオロギーの全く違う労働者天国に、彼らにとっては過酷な労働条件、
それまで椅子に座ってのんぴりやっていたのが、椅子も無い生産ラインに、
秒単位で追っかけられる手作業となり、可成りの抵抗があり定着するまで苦労は
あったが、彼らも、それをやりこなさなければ自由市場では勝てないと悟って、
それまでのマーマーフーフーのイージーゴーイングを改め、克服した結果、
安定した職場を作り上げた。
1962年から1995年ごろに、中国での実りを得るまで、約20年以上の
試行錯誤を重ねた、このプロジエクトのベースは常に香港で、情報収集から、
金融、輸送手段といった中国では未整備の諸問題を整備せざるを得なかったので、
香港とのお付き合いも長いものとなった。
返還問題の政治不安で金が香港外に流出した事もあったが、中国の香港に対する
一定期間現制度を保証するという約束から、それらの資金も香港に還流し、
或いは積極的な、中国政府・英国政府、企業のみならず、他の海外からの
積極的な投資もあり、ビクトリア湾の海底トンネルが開通し、新開地か
開発され、中国進出のための準備基地が整備され、観光資源の開発の為
大歓楽街であるチムサツイの建設、九竜城を取り壊し再開発、等々、
目覚しい発展をしてきた、このプロセスを目の当たりにして改めて香港と
華僑の底力というものを強く感じた。
1966−69年アメリカ中西部シカゴに駐在して、西部、東部も担当し、
1970年よりヨーロッパ市場の担当をして、8年問各地を訪問した、
この問連続して災難に見舞われ九死に一生
(68年はモントリオール万博、ロンドン、ベルリン)
をえたことやら、NATOのあった、マルタ島でレンタカーでドライプ中に、
ハンドルが突然すっぽりと抜けてしまりだ事など色々話のネタがあるが。
いずれ又機会かあればお話したい。
話す材料下記;
ラスベガス、ピスバ一デン、リュペックのカジノのお話し。
シカゴ、マコーミツク、ロスアンジェルス、ラスベガス
ミラノ、ベルリン,ハノバーでの各種ショウ
ドイツ、ブレ一メンの刑務所で囚人に手直し作業をさせたこと。
第二次大戦のドイツ人大少年兵と日本の少年兵の従軍連帯感。
少年高射砲隊員で従軍し後ソ連に抑留されたNORDEMENNDEのプレスティン氏、
当時は部長後専務となったQUELLEのヒルシユマン氏、ドイツの重爆撃模で
ニユーョークまで飛んだ、技術者クルッベパイツ氏、BLAUPUNKUTの役員
ボーレ氏、皆それと言う事なく特別に好意を持って力になってくれた。
特に、弗ショック、オイルショックで示してくれた好意。
アメリカ駐在
1. シカゴで30年ぶりの大雪
2. 真冬氷点下のゴルフ
3. 母の死
4. 5月新芽の息吹き、音 リス
5. エレベーター、loop(地下鉄)
6. 日本食、東京ローズの実家(クラークストリート)アルカポネの縄張り、
  秋刀魚を暁く匂いで町中の犬猫が騒ぐ、アメリカ人はトロを脂身として捨てる。
7. 免許証の取得(カリフォ二ア、イギリス、ニューヨーク)
  銀行口座開くのに必要。ソーシヤルセキュリティ証。
8. 高野山、お寺で時代劇映画をみる楽しみ
9. ポーリッシュ系(ソージャ)ユダヤ系(サンディーゴードン)、
  中米系(メディナ)、イタリア系(トム ギヤラガ一)、
  ハンガリー系(トーマスキッス)、中国系、日系各アメリカ人の考え方の違い。
10. 各国航空会社のスチュアデス気性、アメリカ(ユナイタテッド、
  アメリカン、ノースウェスト、中規模)ヨーロッパ(ルフトハンザ、
  アリタリア、スイスエアー、英国航空、エアーフランス)
  アジア(JALANA、キャセー、タイ、インディア、中華、チャイナ、
  ビエトナム)
11. 香港華僑の力、経営法 ピーターウー、リートンハイ、リーコーショウの木 →
12. 1,5億のストラディバリウスのバイオリン  コー亀田