下鴨神社

8月19日叡山電鉄貴船口駅まで、料理旅館ひろやの車で送ってもらいました。


叡山電鉄貴船口駅に9時21分到着

叡山電鉄貴船口駅ホームに9:23分発の電車が入ってきました

叡山電鉄出町柳行き電車 「きらら」車内

叡山電鉄出町柳行き電車 「きらら」車内

叡山電鉄出町柳行き電車 「きらら」車内

叡山電鉄出町柳駅に9:52到着、駅のロッカーに荷物を預けて
駅の西側信号を渡って高野川の遊歩道へと下りた

出町柳駅の西側、高野川の遊歩道を次の橋まで歩く

高野川には魚がたくさんいてサギが餌を求めておりました
高野川に架かる次の橋を左折して渡り、やや左斜めに道を進してすすむ

御蔭通りの下鴨神社口に到着

下鴨神社

下鴨神社口には世界文化遺産の石碑がありました

糺の森(ただすのもり)の表参道

表参道の左には河合神社があり、東西に神社の鳥居が見えます

東の鳥居から入ると河合神社の手水場

河合神社の神門
写真はないが門に対面するように㉜摂社三井社(みつい)がある。

お化粧絵馬
手鏡の形をした絵馬で自分の一番綺麗な姿を、綺麗になりたいと願いながら描き
奉納すると美人になるそうです。
また下鴨神社の花梨(かりん)を使った美人水という飲み物もありました

河合神社拝殿

舞殿右手奥に鴨長明が晩年に暮らした方丈のレプリカがある
鴨 長明は、五十歳のときすべての公職から身をひき大原に隠とんした。その後、
世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。
大原からほうぼう転々として、承元二年(1208)、五十八歳のころ伏見区日野町に落ち着いた。
各地を移動しているあいだに「栖」(すみか)として仕上げたのが、この「方丈」である。
移動に便利なようにすべて組み立て式となっている。
広さは、一丈(約3メートル)四方。約2.73坪、畳、約五帖半程度。
間口、奥行とも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう一つの特徴は、
土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。
下鴨神社の本殿もまた土居桁の構造である。
この構造は、建物も移動ということを念頭に柱が構築されるからである。
下鴨神社は、式年遷宮により21年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを
得たものといわれている。(河合神社HP)

舞殿右手奥に鴨長明が晩年に暮らした方丈のレプリカ
鴨長明、久寿二年(1155)、下鴨神社禰宜長継の次男として泉の館において生まれた。
応保元年(1161)、7歳のとき、下鴨神社の第六回式年遷宮が行われ、
長明も神職の道につき、従五位下に叙せられた。幼少から学問に秀で、
特に歌道に優れていた。安元元年(1175)(21歳)、高松女院歌合わせに
和歌を献じ注目をあつめた。
治承四年(1180)六月、26歳のときには、福原へ都が遷され、
宮中に奉仕する長明も新都へ赴いたが、八月、源頼朝の乱により平家は滅亡し、
再び平安京へ遷都され帰洛した。正治二年(1200)46歳のとき、
後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることになった。
翌、建仁元年(1201)和歌所の寄人に任せられた。
また琵琶や笛、琴にもたけた演奏の記録が随所にみえる。しかし、元久元年(1204)、
50歳の春、宮中の席を辞して出家し、洛北大原に隠とんする。
元久二年三月「新古今和歌集」に
 石川や 瀬見の小川に清ければ 月も流れを たずてぞすむ
をはじめ十首が採録された。「瀬見の小川」とは、
この河合神社の東を今も流れる川のことである。
建暦二年(1212)3月、「方丈記」ついで「無名抄」を著した。
建保四年(1216)閏6月8日、62歳で歿した。(河合神社HP)

舞殿、拝殿

河合神社のもう一つの手水場(西の鳥居の近く)

河合神社から表参道に戻り北へ進むと
下鴨神社の南口鳥居と楼門が見えてきます

下鴨神社の鳥居

下鴨神社の鳥居と楼門

下鴨神社の楼門

下鴨神社の境内図

舞殿

橋殿

楼門

舞殿と橋殿、少し写っているのが神服殿
舞殿の奥から中門を入ると幣殿(拝殿)の前庭に7つの言社(ことしゃ)
小社殿に7つの名を持つ大国主の命
⑦志固男神(しこのおのかみ)、卯年・酉年生まれの守護
大己貴神(おおむなちのかみ)、寅年・戌年生まれの守護
八千矛神(やちほこのかみ)、辰年・申年生まれの守護
顕国魂神(うつしくにたまのかみ)、午年うまれの守護
⑪大国魂神(おおくにたまのかみ)、巳年・未年生まれの守護
大物主神(おおものぬしのかみ)、丑年・亥年生まれの守護
大国主神(おおくにぬしのかみ)、子年生まれの守護
の干支の神として祀られています。


⑥幣殿(宮中からの幣帛を奉る拝殿)前から御参りしますが御簾で社殿は拝めません
卯年・酉年生まれの守護社殿のところから左へ行くと履き物を脱いで⑤御料社から
昇殿して21年ごとの式年遷宮を昨年済ませたばかりの国宝神殿を学芸員の説明を
聞きながら拝観できた。

①西御本宮には玉依姫命の父神さま、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
厄除け・開運の神様がが祀られており、
②東御本宮には玉依姫命(たまよりひめのみこと)縁結び・安産・子育ての神様が
祀られています。東西の御本宮とも同じ三間流れ様式の檜皮葺神殿で国宝した。
西御本宮の左隣に③霊璽社(れいじしゃ)印鑑・契約守護、約束事の神様が祀られています
拝観料600円は中門を入ったところで受け付けています。
( 京の夏の旅 下鴨神社 本殿・大炊殿 7月9日〜9月30日 )
式年遷宮は本来社殿を新しく建て替えるのですが国宝のため痛んだところを
修復し行ったという事でした。



引き続き学芸員に導かれ隣の三井神社(みついじんじゃ)へ
御本宮の西に祀られる摂社で姫神様とその両親の神が祀られている
舞台奥の右から⑭伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)賀茂建角身命
(かもたけつぬみのみこと)の妻神
中央に⑮賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
左に⑯玉依姫命(たまよりひめのみこと)が祀られている
舞台左手には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と伊賀古夜日売命
(いかこやひめのみこと)のお子神末社が南北に並ぶ。
⑰諏訪社(すわしゃ)に、建御方神(かけみなかたのかみ)農耕の神
⑱杜社(こもりしゃ)に、水分神(みくまりのかみ)水をつかさどる神
⑲白髭社(しらひげしゃ)に、猿田彦神(さるたひこのかみ)すべての物事を
導かれる神を祀る。



三社神社から西隣へ移動

葵の庭のパワースポットストー

双葉葵の自生していた「葵の庭」カリンの木もあることから「カリンの庭」とも言う

今は自生していないので双葉葵の鉢植えが置かれていた

⑳大炊殿(おおいどの)
神饌(しんせん)の煮焚き、調理を行う台所

⑳大炊殿の内部

⑳大炊殿の内部

下鴨神社の鳥居と門

井戸

御車舎

唐車

唐車

特別拝観を終え神服殿から御手洗池(みたらいいけ)へと向かいます




御手洗川細殿の鳥居から解除所(げじょのところ)へ

解除所(げじょのところ)と井上社

葵祭の時に斎王代十二単で手を洗う御手洗池(みたらいいけ)

葵祭の時に斎王代十二単で手を洗う御手洗池(みたらいいけ)

葵祭の時に斎王代十二単で手を洗う御手洗池(みたらいいけ)

㉝井上社・御手洗社

㉝井上社・御手洗社
祭神は瀬織律姫命(せおりつひめのみこと)
この社の前進は、「三代寛録」、元慶3年(827年)9月25日の条をはじめ
諸書に見える「唐崎社」である。賀茂斎院の御禊や解斎、関白加茂詣の解除に
参拝になった社である。元の社地は高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座のところ
文明の乱により、文明2年(1470)6月14日焼失したため、文禄年間
(1592〜96)に、この所に再興になり寛永度(1629)式年遷宮より
官営神社となった。また井戸の井筒の上に祀られたことから井上社とよばれる
ようになった。賀茂祭り(葵祭)に先立つ斎王代の御禊の儀にこの社前の
御手洗池(みたらいいけ)で行われ夏の風物詩土用丑の日の足付神事、
立秋の前夜の矢取りの神事はともに有名である。
土用になれば、御手洗池から清水が湧きでることで七不思議のひとつに挙げられ、
地底から自然に吹き上がる水泡をかたどったのが、みたらし団子の発祥と
伝えられている。

御手洗池(みたらいいけ)から流れる小川と朱塗りの橋

再び楼門の方へ返し

神服殿(しんぷくでん)、㉓供御所(くごしょ)の脇から西の鳥居を出て
㉑印納社(いんのうしゃ)、㉒愛宕社・稲荷社(おたぎしゃ・いなりしゃ)を経て
下鴨本通りに出て道の向かい側の加茂みたらし茶屋へと向かいました。

加茂みたらし茶屋

加茂みたらし茶屋
順番待ちでしたが運よく2番目に店内の席に座れました

加茂みたらし茶屋のメニューから  みたらし420円、磯辺巻き620円 を選んだ

磯辺巻き

磯辺巻き

餅を醤油焼きにして海苔を巻いた磯辺巻き

みたらし団子

みたらし団子

みたらし団子
みたらし団子と磯巻きを食べて予定終了したので出町柳駅へと向かいます

加茂川に架かる橋

高野川に架かる橋を渡り叡山電鉄出町柳駅ロッカーの荷物をだして
地下道をくぐり京阪の特急電車にのり丹波橋近鉄電車に乗り換え、大和西大寺経由
して帰宅しました。