シカゴ駐在 2

W. Loganの事務所兼住居の地下は作業場、なぜか使われないままの立派な
シールドルームも有った。1967年1月当時は永井さん家族と内田さん、
望月さん(彼は日当が激減した為それまでのアパートを引き払いW.Loganに移った)
と私が住んでおりました。
私の駐在前、駐在員を交えF社長と懇親のトランプ(ポーカー)ゲームが有ったとか、
その勝負の結果はF社長がぼろ負けし、その時かけた金額が高額だった事もあり
「おまえらにそんな給料払っとらん」となり、急に1H=1$、日当がわずか$8に
激減したと言う経緯があったとかでそれまでの駐在員は帰国したようです。
丁度私が駐在したのがその直後でまさに日当が$8のわびし〜い生活が
1年以上ありました。
しばらくして永井さんがNYへ移り、シカゴ事務所は内田さんが所長になられました。
8Hと言うもの名ばかりで、昼間はELGINでカストマーリターンの修理、帰りに
東綿に立ち寄り町田さんの修理手伝いや事務所に帰ってからは地下の作業場で
ロットアウトの修理、急ぐ時は祝祭日も地下にての作業であったと思います。
当時業界で東の東洋、西のF社と言われていた頃でELGINにはその東洋から3名が
派遣されて来ておりました。
2度ほど彼らに誘われウオータータワー近くに有ったケーブ(洞窟)と言う
飲み屋に行ったことがありました。
この付近はその昔アルカポネが暴れていたところで有った為、望月さんから
治安が今も悪いのであまり行かない方が安全と言われたことがありました。
シカゴのステイトストリートの高級百貨店マーシャルフィールドに
ウインドウショッピングに出かけたものですがそこは目の保養だけで実際に買うのは
W.Logan近くのゴールド
ブラザー(通称ゴーブラ)でした。昨日のひろくんと写っている写真にその紙袋が写っています。
永井さんがNYに移られるまでは奥さんが炊事洗濯を引き受けてくださり感謝しております
男ばかりになってからは食事を作る時間も無いのでオーブンにて箱の書いてある時間暖める
「TVディナー」いわゆるアルミの器にマッシュポテトやライスとおかずの入った冷凍食品
中でもチャーメンTVディナーが味的には食されたと思います。
日本食料品の買い出しは、戸栗商店(おばちゃんは東京ローズ?)で調味料、乾物、缶詰など
ごく限られた買い物でした。
レストラン? とんでもハップンです、ホット−ドック(エブリシングオン=みな乗せて)
やピッザのナンバーシックス(大判サイズ)を分けあいバドワイザー(ビール)で
流し込んだものです。日当$8では良くても中華の店でした。
入館料に安い自然史博物館、水族館、英語の勉強にと安物映画を見たりしたことが
ありました。
1968年正月は戸栗商店で調達した小餅の雑煮と屠蘇代わりのワイン、
鏡餅がわりには小餅を重ね上にレモンを乗せました。
いつだったかF社長が事務所にこられた時に電話が鳴り近くに居られたので受話器を取られ
「This is F.... maido thank you !」 「ほら客からでんわや」と渡されたことも
ありました。当時インド人から英会話を習われているとかでしたがその度胸には
感心したものです。
「バイヤー訪問前に力つけとかないかん、、にんにく効かしたステーキ食べさせてくれ」
肉屋でステーキ肉を買ってきてがスーテキなんて焼いたこともないとにかくフライパンで焼いた、
腹でも壊されてはと中までとろとろ焼いた為スーテキはがちがち「たべごたえがあるな〜」と
言われ恥をかいたこともありました。