ラジオシャック

ウィキぺディアで、A&A経由での取引先ラジオシャっクについて調べてみました。 

1919年、2人の友人(ノートン・ヒンクリー、およびデイブ・L・タンディ)が、
ヒンクリー・タンディ皮革会社(Hinckley-Tandy Leather Company)を創業。
革靴の部品をフォートワース地域の靴修理業者に売ることを業務としていた。
第二次世界大戦での靴の配給によってそれまでの事業がほとんど立ち行かなくなったため、
タンディの息子チャールズ・Dは革製品製造業への転身を図った。
後に財布などの革製品を作るための皮革と道具を販売する事業にも進出。
紆余曲折を経て(途中でヒンクリーの名前も社名から消えた)、1963年に大きな変化が訪れた。倒産しかかっていたラジオシャックを買収したのである。
一方、ラジオシャック社は 1921年マサチューセッツ州ボストンで、セオドアとミルトンの
ドイッチェマン兄弟が設立した。彼らはアマチュア無線の最先端領域に機器を提供しようと
した。店の名称はアマチュア無線での「通信室」から取られている。
1940年代初期に最初のカタログを出し、その後Hi-Fi音楽市場にも参入した。
1954年、ラジオシャックは独自ブランド Realistic の名で製品を販売するようになる。
9つの店舗を構え通信販売も広く行ったが、1960年代には苦境に陥った。
ラジオシャックは基本的に倒産状態となったが、チャールズ・タンディはラジオシャック
家電の可能性を見抜き 30万ドルで買収した。
1963年、タンディ社はタンディ・ラジオシャックと改称した。タンディはその後
エレクトロニクス関連以外の部門を処分した。
ラジオシャックは、コモドールやアップルと共にパーソナルコンピュータ革命を
起こした企業である。TRS-80(1977年)、TRS-80 Color Computer(1980年)といった
ホームコンピュータを製造販売した。さらにタンディはPC/AT互換機市場にも参入した。
タンディのPC互換機は安価だがサウンド機能とグラフィック機能が優れていた。
しかし、それもVGA規格とサウンドブラスターが業界標準となるまでで、
1990年代初めにはタンディの互換機は対抗できなくなって自社ブランドの販売をやめた。
ラジオシャックのもうひとつの大ヒットとして、Family Radio Service 製品がある。
通信範囲の狭い携帯無線システムである(日本の法で言う特定小電力無線に相当)。
1990年代中ごろから、携帯電話関連のコンポーネントに注力するようになった。
1994年以降のスローガンは「あなたの質問には私達がお答えします」であった。
1995年、タンディは大手電器販売チェーン(ベスト・バイやサーキット・シティ)に
対抗すべく、ヒューストンに大型店舗を出店した。
これはタンディがそういった大手と肩を並べるようになるかどうかの試金石だった。
しかし、思ったように売り上げは上がらず閉鎖することとなった。
2000年5月に、同社は名称からヒンクリーに続いて「タンディ」の名も外し、
ラジオシャックに改称。
また 2000年、ラジオシャックRCAの製品を販売する協定を結び、独自ブランド Realistic や
Optimus を廃止する。
もっとも 1990年代初期には既に Realistic の名で製品を自社開発することをやめていた。
RCAとの契約が2004年に終わると、ラジオシャックは独自ブランド Accurian を販売品目に加え、
一時的に Optimus も復活させた。他にバッテリーについての独自ブランド Enercell がある。
多くのラジオシャック店はまだ1980年代と変化のない製品を扱っている。
古いラジオシャック製品はロゴやブランド名からそれとわかる。
商品の回転が遅いので、数世代の包装のバリエーションを見かけることも珍しくない。
2006年2月、ラジオシャックは400から700の店舗を閉鎖し、停滞していた在庫を清算する
計画を発表した。棚卸資産評価減と閉鎖のコストにより5500万ドルから1億ドルの
持ち出しとなるが、その一部は2007年に持ち越される。
2006年2月20日、CEOのデイビッド・エドモンドソンは学歴詐称が発覚して辞任した。
後任のCEOとしてクレア・バブロウスキが就任。このため、ラジオシャックの株価は
3年ぶりの低水準となった。
2010年からは、アメリカの自転車競技選手ランス・アームストロングが立ち上げた
チーム・レディオシャックのメインスポンサーとなった。