最初の海外経験は、1945年陸軍輸送飛行隊に所属して、人、書類、貨物などの
航空輸送任務で済州島、上海、桃園に行く。
沖縄の制空圏が米軍に制圧された後も、艦載機が出没する合間を縫って任務につく。
戦後1962年、香港に21日間出張、大谷さんの補佐でトランジスターラジオの
生産技術指導 九竜サイドのオーシャンターミナルにあつた税関の上屋(倉庫)で着荷品の
サーベイヤー検査の立会い。
ユダヤ商財閥にいたバイヤーと、中国人のPWさん(上海でモーターのコイル巻きを
していたが、中共に追われて香港にきた人、後に香港の松下幸之助といわれた)
前者はユダヤ系商経路を通じて手広い商内をしていた人、後者は前者と堂々と張り合える
カをもった典型的な華僑企業家,
香港は岩盤上に出来でいる都市で、降った雨水はすぐに流れてしまう、水源地はあるが
すぐ渇れてしまって当時は厳しい水不足であった,現在では中国深せんから大きなパイプで
送水されているがそれまでは、ホテルの水洗トイレに海水が使われていた。
交渉相手の一人であったEz氏もついには、シャワーを使わせてくれと毎日のように
私の部屋に来ていた、
アメリカ海軍の特殊作業船かビクトリア湾上で海水を真水に蒸留して政府機関に供給していた。
今でこそ、立派な建物が建ち並んでいるが、当時は中国から難民が続々と密入国してきて、
多くの人々が捕らえられて、留置施設に収容され、収容しきれない人々は屋根も無い
小学校の運動場に車座に座らされてポリスの監視下に置かれていた
今は山麓から頂士まで高級住宅街が建ち並んでいるが、 当時は、トタン屋根のバラック
小屋が山肌にへばりつくように建っていた。
又、市内には、怖い九龍城があって旅行者は近寄れなかった、
至る所で道路工事が行われていて、岩盤を掘り砕くのに街中でダイナマイトが使用されていた、
勿論毛布を幾重にもかけて岩石の散乱事故を防ぐ対策はしていたが、
その側を市民か平気で歩いて通っている、
ちょっと日本では考えられない風景が見られた、 今は九竜側と香港側は海底トンネルで
つながっているが、当時一般の、交通手段はスターフエリーで、香港島と九竜間の両岸を
頻繁に往復して、公共の重要な役割を果たしていた。
渡し賃も安く香港ドルの10セント位1階はもっと安く5セントくらいであったと思う,
船底には労務者が乗っていたが確かフリーだったようである。
この頃の香港は、まだ植民地政策の影響が強く残っていて、町中至る所で欧米人の
老若男女の姿が見られた ホテルも高級はぺニンスラー、マンダリン、 香港ホテルがあり、
我々が泊まれるクラスではアンバサダ一、インベリアル、YMCAくらいしかなかった。
香港は中国に返還されその治世下にありとはいえ、制度上は中国と違った政策の下に市民は、
個人財産を保証されて生活をしているが、多くの人、又はその子弟が カナダ、
オーストラリア、英国本土に移り住んでいる。
1962年来数十回香港に行き、その移り変わりを見てきた、ある時期には、中国進出の
足がかりにと香港市内の目抜きのセントラル地区にオフィースを構えて 日本の仕事と
掛け持ちしで、3日に1度の割で出張した、ホテル住まいでは経費もかかるし、
中国に進出するには落ち着く場も必要ということで、生活の場を香港島北部のタイクーシン
(大古城)にアパートを借りていたセントラルから地下鉄で20分くらいのところで、
駅にはヤオハンスーパ一もあり日本食品も売られていた。
中国進出を目的に動いていたのだが、この頃の中国の経済は外貨保有も充分でなく、
極めて不安定な状態であったが、大きな人口を持つ市場として、
登小平さんの解放経済に期待して、皆進出のチャンスを狙っていた。
我々も中国本土で競争力のある民生電子機器を造り、それを中国市場のみならす、
欧米市場にも売ろうという算段でワークしていた、其のため中国各地の、主として
沿海都市部の北京、天津、上海、広州、深センなどを重点的に国営企集と合弁の交渉を
したが、当時の中国側との交渉は一担当部署だけの話では纏められなくて、
急造自由経済界の会社の社長は、バリバリの共産党員や、労働組合の役員さん、
又 行政出身の会社幹部は、商取引についてあまり経験のない保安、共産党組織の幹部などか
出席してやるので大変。
当時はそれら組織のすべての合意がないと何も話が進まない状態であった。
落着くところは外貨不足と、投資についての保証制度が整っていないという事で、
期待していた企業は皆足をすくわれた格好になってしまった。
後に、外資に対する保証法も整備され、華僑資本以外も積極的に企業家の投資がすすめられ、
広東省の中山、東莞、珠海などに生産工場をつくり、競争力のある製品を作って、
業績に大きな貢献をしている。
特に、イデオロギーの全く違う労働者天国に、彼らにとっては過酷な労働条件、
それまで椅子に座ってのんぴりやっていたのが、椅子も無い生産ラインに、秒単位で
追っかけられる手作業となり、可成りの抵抗があり定着するまで苦労はあったが、
彼らも、それをやりこなさなければ自由市場では勝てないと悟って、 それまでの
マーマーフーフーのイージーゴーイングを改め、克服した結果、安定した職場を作り上げた。
1962年から1995年ごろに、中国での実りを得るまで、約20年以上の試行錯誤を
重ねた、このプロジエクトのベースは常に香港で、情報収集から、金融、輸送手段と
いった中国では未整備の諸問題を整備せざるを得なかったので、香港とのお付き合いも
長いものとなった。
返還問題の政治不安で金が香港外に流出した事もあったが、中国の香港に対する一定期間
現制度を保証するという約束から、それらの資金も香港に還流し、或いは積極的な、
中国政府・英国政府、企業のみならず、他の海外からの積極的な投資もあり、ビクトリア湾の
海底トンネルが開通し、新開地か開発され、中国進出のための準備基地が整備され、
観光資源の開発の為大歓楽街であるチムサツイの建設、九竜城を取り壊し再開発、等々、
目覚しい発展をしてきた、このプロセスを目の当たりにして改めて香港と華僑の底力と
いうものを強く感じた。
1966−69年アメリカ中西部シカゴに駐在して、西部、東部も担当し、
1970年よりヨーロッパ市場の担当をして、8年問各地を訪問した、
この問連続して災難に見舞われ九死に一生 を得たことやら、NATO(北大西洋条約機構本部)
のあった、マルタ島で工場立地候補地を見定めに行く途中レンタカーでドライプ中に、
ハンドルが突然すっぽ抜けてあわや海に転落・・など色々話のネタがあるが。
いずれ 機会かあれば お話したい。
以上 約20年程?いやもっと前に・・・海外経験を話してくれと言われてしゃべったときの
内容をまとめました。
シカゴ、マコーミツク、ロスアンジェルス、ラスベガス 、ミラノ、ベルリン,ハノバーでの
各種ショウ、ドイツ、ブレ一メンの刑務所で囚人に手直し作業をさせたこと。
第二次大戦のドイツ人大少年兵と日本の少年兵の従軍連帯感。
少年高射砲隊員で従軍し後ソ連に抑留されたNORDEMENNDEのプレスティン氏、当時は部長
後専務となったQUELLEのヒルシユマン氏、ドイツの重爆撃模でニユーョークまで飛んだ、
技術者クルッベパイツ氏、BLAUPUNKUTの役員ボーレ氏、皆それと言う事なく特別に好意を
持って力になってくれた。
特に、弗ショック、オイルショックで示してくれた好意。
アメリカ駐在
1. シカゴで30年ぶりの大雪
2. 真冬氷点下のゴルフ
3. 母の死
4. 5月新芽の息吹き、音 リス
5. 地下鉄の呼称 エレベーター、ループ、チューブ 、メトロ
6. 日本食、東京ローズの実家(クラークストリート)アルカポネの縄張り、秋刀魚を暁く
匂いで町中の犬猫が騒ぐ、アメリカ人はトロを脂身として捨てる。
7. 免許証の取得(カリフォ二ア、イギリス、ニューヨーク)銀行口座開くのに必要。
ソーシヤルセキュリティ証。
8. 高野山、お寺で時代劇映画をみる楽しみ
9. ポーリッシュ系(ソージャ)ユダヤ系(サンディーゴードン)、中米系(メディナ)、
イタリア系(トム ギヤラガ一)、ハンガリー系(トーマスキッス)、中国系、日系各
アメリカ人の考え方の違い。
10. 各国航空会社のスチュアデス気性、アメリカ(ユナイタテッド、アメリカン、
ノースウェスト、中規模)ヨーロッパ(ルフトハンザ、アリタリア、スイスエアー、
英国航空、エアーフランス) アジア(JAL、ANA、キャセー、タイ、インディア、中華、
チャイナ、ビエトナム)
11. 香港華僑の力、経営法 ピーターウー、リートンハイ、リーコーショウの子孫(自称)
12. 1,5億のストラディバリウスのバイオリン コー亀田