ミステリー2日目、3月28日昼食後この日の4か所目のスポットへ
4か所目のスポット少弐公園へは昼食会場の「味処うめしま」から1.4km(8分)
少弐公園
少弐公園
少弐公園は弘安の役瀬戸浦古戦場でもある
弘安の役瀬戸浦古戦場
弘安四年(1281)の、二回目の元寇の時、対馬・壱岐を侵して六月初旬に博多湾に来襲した元寇軍(東路軍)は、鎌倉幕府の守備軍との間で激戦を展開し、一時は水城にまで迫る勢いであった。しかし東路軍は幕府軍の予想以上の反撃に遭い、江南軍の到着が遅れたこともあってか、六月中旬になって肥前鷹島まで退いた。当時の壱岐島は元軍の博多攻略の根拠地となっていた。そのため鎮西奉行・少弐経資(しょうにつねすけ)は自ら陣頭に立ち、博多方面の警護をしていた薩摩・筑前・肥前・肥後の御家人達を率いて壱岐の瀬戸浦に攻めよせ、六月二十九日から七月二日にかけて元軍と激突することになった。戦闘は主に港の内外を中心とする海上はもちろんのこと、瀬戸浦の両岸やその周辺の陸地でも激しく繰り広げられたという。瀬戸浦は二キロメートルに及ぶ狭隘な入り江を有し、西側には少弐氏の居館船匿城(ふなかくしじょう)があり、水軍の基地としては絶好の条件を備えていた。また壱岐から博多までの最短の地に当たることから元軍も拠点としていたものと考えられる。当時の壱岐の守護としては、今日わずかに文永十年(1273)十一月十六日の記録(松浦文書)に見られる武藤(のちの少弐)資能(すけよし)が確認できるだけである。瀬戸浦一帯が少弐氏の私領であったことから、その攻防戦は激しいものがあったと想像される。(この戦については「龍造寺文書」弘安五年九月九日肥前守護北条時定書状に、「去年、異賊襲来の時、七月二日、壱岐島瀬戸浦において合戦せしよしの事、申状ならびに證人起請文を披見しおわんぬ」「去年(弘安四年・1281)、元寇が襲来した時、七月二日に壱岐の瀬戸浦で合戦に及んだという事、貴方からの上申書(恩賞を願い出た文書)、並びに天地神明に誓った起請文で拝見した」と記されている)また、ここに築かれている積石塚は、少弐経資の三男、資時(すけとき)の墳墓であるとされる。資時は当時十九歳で一群の将として勇敢に戦い、ついに倒れた。資時は壱岐守護代であったとも伝えられるが詳細については確認できていない。 (説明板より)
少弐経資の三男、資時(すけとき)の墳墓
少弐資時記念碑
古戦場址に咲くやぶ椿
少弐公園から見える竜神崎
竜神崎を見下ろす丘の碇石
説明版に見入るツアー客
日本船の碇石
碇石(いかりいし)
中央部が太く先端に向かって先細りとなる本体の前面は楕円形をなしている。碇石は木製の碇軸木に網をもって固縛するための網掛け溝が設けてあり、中世日本船の絵に描かれている碇と一致している。中国泉州発掘の碇石や長崎県鷹島南岸の海中から引き揚げた十三世紀の中国船の碇石とは明らかに型式を異にしている点は重要であり、このことから左京鼻沖合から発見された本碇石が中世日本におけるやや大型の外洋船に使用されたものと推定される。1281年、第二次日本遠征に踏み切ろうとしている元帝国に対して、執権北条時宗の指導により、九州沿岸には石築地(防塁)を築き、対馬、壱岐には守備兵を配置して防衛体制を整えた。壱岐には鎮西奉行少弐経資が我が子少弐資時を守護代に任命して防衛に当たらせた。この時に兵員、武器、軍馬、兵糧等の輸送に九州としては大型の船舶を当てた。弘安四年五月二十六日、壱岐瀬戸浦に侵攻した元の東路軍と大激戦の末、少弐資時以下全員玉砕したことは歴史の示すところである。玉砕数カ月前に守備兵等の輸送に当たった数隻の大型船は主なきままに瀬戸浦に沈んだものと思われる。材質が外国産の花崗岩を使用しているが、この時代、博多の港には石材まで輸入していた事実から、その石材を日本船に使用したものと考えられる。本碇石が単なる日本船のものと考えるより歴史に照らして弘安の役に殉じた日本将兵と深い関係があったものと考えるべきであろう。(説明板より)
狼煙台が2基ありました。
手前は円形、奥は四角の狼煙台で上部に四角い穴が4つ空いていた。
石段が付いた四角い狼煙台
弘安の役古戦場の碑
少弐公園のある瀬戸浦から芦辺浦を望む
ミステリー2日目、3月28日この日の5か所目のスポットは
瀬戸浦の壱岐神社、壱岐護国神社
瀬戸浦の壱岐神社、壱岐護国神社
御由緒
壱岐瀬戸浦、少弐の丘に鎮座します壱岐神社・壱岐護国神社は古来より「少弐公」の呼び名で瀬戸浦は勿論、広く地域の皆様に愛されてきたお宮です。御祭神は亀山天皇、後宇多天皇、少弐資時公、また先の大戦でその尊い命を捧げられた千九百五十四柱の壱岐郡の護国の御霊でございます。わが国は文永十一年、弘安四年(1274、1281)の二回にわたって国家開闢以来最大の困難に遭遇し、まさに国運を賭けた防衛線を強いられたのです。時の幕府執権は北条時宗、天皇は文永の役は亀山天皇、弘安の役は後宇多天皇でございます。ともに我が身を投げ出され敵国降伏、国家安奏を祈願なされたのでございます。また少弐資時公は、文永の役博多の戦いでわずか十二才で初陣、矢合し七年後の弘安の役に父太宰少弐経資の命を受け、壱岐に渡り十九歳の若さで壱岐の島を守るため、この少弐の丘で奮戦され、部下とともに壮烈な最期をとげられたのです。このように御祭神は国難事変に際して深きご神威を顕し給い、平時においては国家の平和を護らせ給う神々であらせられます。(神社においてある由緒書きより)
壱岐神社境内にはモンゴル駐日大使が植樹した木がありました。
元寇
わが国は1274年、文永11年と7年後の1281年、弘安4年の2度に亘り元の襲来を受けておりますが、その折福岡の大宰府でこの九州を鎮座しておりました太宰少弐の武藤経資はわずかにまだ12歳の資時を戦士の志気を高めるため壱岐の島に派遣しました。この時元軍3万、船は900艇であったといわれています。壱岐の島もまた大変な被害を受け壊滅状態になりました。対馬、壱岐、鷹島などを経て元軍は博多港へと向かいまして百道の浜にて日本軍と合戦が行われることとなるのですが、1274年11月5日夜に神風が吹き荒れ蒙古の船百余艘が沈み13500人の死者が出たということであります。しかし、フビライはなかなか日本国をあきらめず日本を元の国に吸収しようと時を伺い、弘安4年に再び同じコースで日本に攻め入りました。この時はなんと4400艘の船に14万2千の兵であったと言われています。資時はその時19歳の若者へと成長しており、元軍を迎え撃ちましたがなにぶんにも14万の兵の前にわずか数百人の手勢で立ち向かい、力及ぶべくも無く、哀れこの少弐の丘で戦死なされました。お城は船匿城(ふなかくしじょう)と申しまして神社の向かい側右手の高台になりまして、今はわずかにやぶの中にその石垣を残すのみとなっております。現在は人一人がやっと通れるくらいの隠れ穴などが残されております。元軍はこの島で暴虐(ぼうぎゃく)の限りを尽くし多くの島民が犠牲となりました。この島には千人塚と申しましていたるところに15センチくらいの石を積んだ塚が残されておりますがその時の犠牲者を葬った場所でございます。この古墳(塚?)は古代朝鮮の高句麗の積石古墳と同じ形状になっています。また、この島では無理やりということをムクリコクリ、またはムリコクリなどという表現をしますが、これは蒙古高句麗(モウコ コクリ)という言葉からきているといわれています。島民は資時公への恩義を忘れず延々700年もの間この地域の村民でショウニイ様してお祭りしていたのですが、わが後藤家16代当主の後藤謙太郎が神社の創建を思い立ち、数十年の歳月を経て昭和22年、神社の創立がなりました。幸い、この文永の役の時も博多湾に元の軍勢が陣を構えております時7月30日の夜半より神風が吹き荒れ翌閏7月1日には多くの兵が溺れ死に、これを見た日本軍は大いに勇み立ち、残る元の兵を討ち取りまして、わずかに残る兵が朝鮮半島に向かって敗走し故国の土を踏んだのはわずか16000人であったと言われています。時の執権北条時宗は18歳の若さで鎌倉幕府の執権にわずか18歳の若さで就任し、文永、弘安の役を戦い抜き戦後処理の手も付かぬうちに弘安7年(1284年)病の為に34歳で亡くなりますが、資時、時宗、両者ともその生涯はまさに異国との合戦に捧げ尽くされたものだと言えるでしょう。(壱岐神社においてある元寇の説明文より)