圓證寺 神武天皇聖蹟 天忍穂耳神社

今日は真弓南の西端、圓證寺から坂道を下り富雄川に出て左折し神武天皇聖蹟 
天忍穂耳神社から砂利工場の中を通って真弓南の住宅街の南端を歩いてきました。


真弓南の西南端にある圓證寺の山門

圓證寺へ入ってみたかったが閉まっています

圓證寺の由来 
当寺は宇多天皇の御宇、寛平年間大和郡山筒井庄に草創され、鎌倉時代に至って
忍性菩薩が寺門興隆せられた。
のち天文年中、奈良市林小路の筒井順昭の邸地に寺籍を移し順昭没後、嗣子順慶が
筒井家の菩提寺とする。
近年奈良市街地の商業高層化により環境保全のため昭和60年この地に遷寺した。
 叱枳尼天 稲荷大明神 
当寺叱枳尼天は中興本願順慶法師の祖、順弘法師が峯門繁栄、子孫長久のため
春日明神に参籠折願満願の際示現感得された春日五柱の御本地物佛で霊験の
あらたかなことで知られている
 重要文化財
一 室町時代  本堂 釈迦三尊
一 平安時代  普賢菩薩騎象像、 文殊菩薩騎獅像 筒井順昭栄舜房
一 石造五輪塔


寺の前の坂をあすか野方面へ下り、富雄川の西村橋を左折し出垣内(でがいと)バス停の
すぐ南側にコンクリートの切れ目があり、
神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑 70m 天忍穂耳神社 300m
切れ目の奥から緩やかな坂を上っていく

神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑(とびのむら)
Webで検索してみると;
天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)12月4日、磐余彦尊(いわれひこ)の軍はついに
長髄彦(ながすねひこ)を討つことになった。「日本書記」
 しかし戦いを重ねたが、なかなか勝利をものに出来なかった。
 そのとき急に空が暗くなって雹(ひょう)が降り出した。
 そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、磐余彦尊の弓先に止まった。
 その鵄(とび)は光り輝いて、その姿はまるで雷光のようであった。
 このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。

神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑
さらに検索してみると;
 富雄川、この「富雄」という地名、実は面白い由緒があって、この場所が日本神話に
初代天皇として登場する伝説上の人物「神武天皇」に関わりのある場所なんだそうです。

神武天皇は、実在の人物なのかどうかも不明で、実在したとしても当時は地方の豪族程度
だったと考えられていますが、古事記日本書紀に記されたストーリーとしては、
「神武の東征」が挙げられます。他の豪族たちとの戦いが描かれていますが、
有名な物としては「金鵄(きんし)」と「八咫烏(やたがらす)」の逸話があります。

八咫烏は、最近では日本サッカー代表のシンボルマークにも使われているので有名ですが、
3本の足を持つ烏で、神武東征の道案内をしたとされています。

金鵄は、神武天皇長髄彦の戦いの際、金色の鵄(とび)が飛んで来て天皇の弓に止まり、
その光で長髄彦軍の目がくらみ、天皇軍が勝利したとされています。

そのため、八咫烏も金鵄も神の使い、霊鳥として扱われています。

実は、その神武天皇長髄彦の戦いの場が現在の奈良県生駒市奈良市の富雄川沿いで
あったとされており、神武天皇軍と長髄彦は富雄川を挟んで対峙していたと
されています。そして、その際神武天皇軍が陣取ったのが現在の近鉄けいはんな線
学研北生駒駅近くの小山の上で、そこがまさに金鵄が来訪した場所とされています。

鵄(とび)が舞い降りた村なので、この一帯を昔は鵄邑(とびむら)と呼んだそうです。
それが次第に訛り、鵄邑から鳥見、登美、富雄などの地名が派生したようで、
現在でも鳥見町とか登美ヶ丘、富雄などの地名が周囲に残っています。
戦中は、「日本建国の地」の聖地として扱われ、富雄駅も一時「鵄邑(とびのむら)駅」と
改称されたほどです。「神武天皇聖 蹟鵄邑顕彰之地」です。

神武天皇聖蹟 鵄邑顕彰碑

神武天皇聖蹟から天忍穂耳神社への道

竹藪の中で暗いので撮影モードを切り替えて撮影

天忍穂耳神社

天忍穂耳神社、林の中で暗いので撮影モードを切り替えて撮影
静かな雰囲気に見えますが実際は神社の右手は轟音を立てている砂利の工場です。
砂利工場から真弓南へ抜けた。

真弓南にあるライオン公園

真弓南にあるライオン公園