四国88箇所車遍路 🚙 53

四国88箇所車遍路 🚙 53 志度寺 長尾寺 大窪寺

Shikoku pilgrimage 88
2014-11-03
86番志度寺 (Fudarausan Shidoji, 86th Shikoku pilgrimage 88) 
Above sea level 2m
第86番札所 補陀洛山 志度寺 (ふだらくさん しどじ) 
本尊  十一面観世音菩薩 (じゅういちめんかんぜおんぼさつ) 
真言  「おん まか きゃろにきゃ そわか」
開基  藤原不比等
宗派  真言宗善通寺派
御詠歌 いぎさらば こよひはここに しどのてら いのりのこゑを みみにふれつつ 
所在地 香川県さぬき市志度1102番地

↖ 86番志度寺(シドジ)境内図

☆ 仁王門を入ると左に海女の墓がある。謡曲「海士」で知られる伝説によれば、天智天皇のころ、藤原不比等が亡父鎌足の供養に奈良興福寺の建立を発願した。唐の高宗皇帝の妃であった妹はその菩提にと三つの宝珠を船で送ったが、志度の浦で龍神に奪われた。兄の不比等はあきらめきれず、姿をかえて志度の浦へ渡り、土地の海女と夫婦になり一子・房前をもうける。やがて海女は観世音に祈願し、夫とわが子のために命を捨てて龍神から宝珠をとりかえす。不比等は海辺の近くに海女の墓と小堂をたて「死度道場」と名づけた。後に房前は母の追善供養に堂宇を増築し、寺の名を志度寺と改めるのである。寺伝によれば推古天皇の三十三年に志度の浦に楠の霊木が漂着し、園子尼がこの霊木で観世音の尊像を刻みたいと念じたのがそのはじまりという。現在の本堂・仁王門は寛文十年(一六七〇)の建立。五重塔は昭和五十年、大阪に出て成功した当地出身の竹部二郎氏の建立。☆ (四国ネットより)

山麓駅から11号まで戻り左折11号直進志度で左折して86番の山門右のPか136号の海女の墓の駐車場へ車を停めた

海女の駐車場から志度寺の表に廻り、この志度寺石柱門を入って参道右の常楽寺にある当地出身で江戸中期に活躍した平賀源内の墓へ

平賀源内は享保十三年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延二年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。安永八年(1779)十一月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で十二月十八日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。総泉寺は昭和三年(1928)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和四年に東京府史蹟に仮指定され、昭和六年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和十八年に国指定史跡となった。(台東区教育委員会掲示より)

個の御墓は香川県志度町にある平賀源内の墓(右)、

常楽寺志度寺へからでて志度寺への参道を進む

志度寺の山門と五重塔

志度寺の山門と五重塔 (この山門の右手にも駐車場があります)

山門からまっすぐ進むと薬師堂があり、その左に志度寺の閻魔堂がありさらに大師堂、本堂があります(団体のお遍路が大勢だったので本堂と大師堂の写真撮影は無し)

五重塔

本堂の右に奪衣婆堂があり縁からお堂の中を覗くと恐ろしい形相の奪衣婆像が有った。

五重塔から山門横の納経所へ歩き納経を済ませ寺敷地の北東角の駐車場へ向かう

志度寺の境内の一角に「海女の墓」と呼ばれる五輪塔群がある。この墓には藤原不比等・房前親子にまつわる伝説が残されており、志度寺縁起にある「海女の玉取伝説」として有名である。藤原鎌足は娘・白光を唐の高宗の許に嫁がせた。やがて父が亡くなった知らせを聞いた白光は、日本へ3つの宝物を供養にと送った。ところが、それを船で運ぶ途中、志度沖で龍神がその宝物の1つ“面向不背の玉”を奪ってしまったのである。そこで、鎌足の跡を継いだ不比等は“淡海”という変名を使って志度の地に赴き、玉の行方を探索することとした。そしてその最中に玉藻という名の海女と出会い、恋に落ちて男児をもうけるまでに至ったのである。時が経ち、不比等は玉藻に自分の素姓とこの地へやって来た目的を明かした。玉藻は玉が龍宮(真珠島)にあることを突き止めるが、龍神が常に守っているために奪い返せない。決死の覚悟で奪還を試みるが、取り戻した途端に龍神に襲われてしまう。傷つき息も絶え絶えとなった玉藻は最後の力を振り絞って、護身の短刀を自らの乳房下に突き刺して十字に切り裂くと、その中に玉を押し込めて海面にまで辿り着いた。駆け寄る不比等に取り出した玉を渡し、残された男児を藤原家の跡取りにと頼むと、玉藻は息を引き取ってのである。不比等は亡くなった玉藻の遺骸を志度寺に葬ると、残された男児を都に連れて帰った。後にその児は藤原房前として政治の表舞台で活躍した。だがある時、自分の母親の最期を聞くと、志度寺に赴いて新たに堂宇を建て、さらに1000基の石塔を建立したという。これが現在「海女の墓」と呼ばれるものである。志度寺の周辺には、海女が玉を取り戻して帰還した真珠島の跡も残されている(現在は埋め立てにより島の形ではないとのこと Web より引用)。
海女の墓の前ではお婆さんが箒で掃除をしておられ海女の墓についてお話をしていただけました。供養等(墓)が荒らされた事件への対策と「古跡 海女の墓」とある区画にはまるで檻の様な番線で組まれた木柵が有り、その物々しさに異様なものを感じたが、御墓は五輪塔で大きな石櫃の中には海女が使っていたものが入っているとの話しでした。

海女の墓は柵の内側に手を入れて撮影しました。お墓の向こう側に写っているフェンスはちゃんとしたフェンスですが御墓の前面は番線で組まれた不似合の高い木柵があるのです。

86番志度寺の納経、墨書き御朱印と開創1200年記念スタンプ Osamekei of Shidojii with the retractor 1200 Memorial special stamp.

86番志度寺の本尊御影 Principal image card of Shidoji temple is usually black and white. The red card is the retractor 1200 Memorial special.

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☆☆


Shikoku pilgrimage 88
2014-11-03
87番長尾寺 ( Fudarakuzan Nagaoji, 87th of shikoku pilgrimage 88 ) 
Above sea level 36m
第87番札所 補陀落山 長尾寺 (ふだらくさん ながおじ)
本尊  聖観世音菩薩 (せいかんぜおんぼさつ) 
真言  「おん あろりきゃ そわか」
開基  行基菩薩
宗派  天台宗 
御詠歌 あしびきの やまどりのをの ながをでら あきのよすがら みなをとなへて
所在地 香川県さぬき市長尾西653番地

↖ 87番長尾寺(ナガオジ)境内図

☆ 志度をあとに約七㌔の道をたどると長尾の古い町並になる。寺は町中にあり、弘安六年と九年の銘のある石の経幢を拝みながら仁王門を入ると、広い境内に本堂、右に大師堂、左に護摩堂と常行堂が建ち並ぶ。天平十年(七三八)行基菩薩が巡錫の折、道端にある楊柳をもって聖観世音を刻み、小堂を建てて尊像を安置したのが寺のはじまりという。弘法大師は入唐するにあたりご本尊に祈願し、護摩修法された。このとき人々に護摩符を授け、それ以来「大会陽福奪い」の行事が今日までつづいている。大師は唐より帰朝してから大日経を一字一石に書写して入唐の大願を成就したことを謝し、万霊の供養塔をたてて修法された。この供養塔は現在護摩堂の前にある。後に天長二年(八二五)には伽藍が整備され、永仁六年(一二九八)伏見天皇の勅により開扉法要が営まれ、天和元年(一六八一)真言宗から天台宗に改めている。住職の説法は人気がある。 ☆ (四国ネットより)

3号南下長尾東又は手前で右折して87番へP駐車場は門の左側、境内にも車が入っています。

87番長尾寺の山門と山門手前両脇には経幢が収まった小堂

経幢(1283年、左の西側)経幢とは経を書いて供養し埋めて、その上に建てた幢で、中国では唐代に始まり、わが国では鎌倉時代頃から各地で建立されるようになった。長尾寺の経幢きょうどうは仁王門前に東西2基ある。凝灰岩で造られており、経年変化が進み、表面の字が読みづらくなっている(Webより引用)

経幢(1286年、右の東側)

87番長尾寺の三門は、三つ棟木という珍しい工法で寛文10年(1670年)建立とされた日本三大名門の1つという

山門からの87番長尾寺境内、手前右に手水舎、その後ろに大師堂、正面に本堂、本堂の左に護摩

長尾寺の本堂と大師堂

長尾寺護摩堂の前に静御前の剃髪塚があります

その横に立つ興亜地蔵尊

静御前剃髪塚

長尾寺の本堂

長尾寺の本堂と大師堂

87番長尾寺の納経、墨書き御朱印と開創1200年記念スタンプ Osamekei of Nagaoji with the retractor 1200 Memorial special stamp.

87番長尾寺の本尊御影 Principal image card of Nagaoji temple is usually black and white. The red card is the retractor 1200 Memorial special.

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Shikoku pilgrimage 88
2014-11-03
88番大窪寺  ( Iouzan Okuboji, 88th of Shikoku pilgrimage 88) 
Above sea level 450m
第88番札所 医王山 大窪寺 (いおうざん おおくぼじ)
本尊  薬師如来 (やくしにょらい 伝、弘法大師作) 
真言  「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」
開基  行基菩薩
宗派  真言宗太覚寺派
御詠歌 なむやくし しょびょうなかれと ねがひつつ まいれるひとは おほくぼのてら
所在地 香川県さぬき市多和兼割96番地

↖ 88番大窪寺(オオクボジ)

☆ 結願への最後の十八㌔の山路をたどる。長い遍路の旅もここが終着・結願の寺である。「お大師さんのおかげで巡拝できた」そのよろこびははかりしれない。寺伝によれば元正天皇のころ、行基菩薩がこの地に留錫し、弘法大師が唐から帰国してより、現在の奥ノ院の岩窟で求聞持の法を修し、大きな窪のかたわらに堂宇を建立して自刻の薬師如来を安置した。これが大窪寺のはじまりで、後に女人高野ともいわれ、参拝者で賑わったという。そそり立つ胎蔵ヶ峰を背景に本堂があり、礼堂・中殿・奥殿(二重多宝塔)からなり、ご本尊の薬師如来は奥殿に安置されている。薬壺のかわりにほら貝をもった尊容をされ、このほら貝ですべての厄難諸病をふきはらうといわれる。強い信仰のささえがあってこそ巡拝中におかげをうけたのである。打ち終えた遍路は大師堂で感謝の勤行をすませ、決まり事ではありませんが、杖・菅笠を納めてゆく人がいます。 ☆ (四国ネットより)

3号南下直進道の駅ながおの前のお遍路交流センターに立ち寄り377号左折193号から88番へ駐車場は仁王門の手前

駐車場から山門(仁王門)へとあるく、巡拝用品をあつかう飛猿閣(ひえんかく)の店前まで来たとき、道路の斜線部分に汚れた犬が後ろ脚を痛そうにビッコひき出てきて座り込んだ 「車にひかれるよ」 と声を掛けたが? この犬の話しは民宿八十窪の大おかみさんから後ほど宿について夕食時に聞くことになりました。

88番大窪寺山門の仁王像

88番大窪寺山門の仁王像

88番大窪寺の鐘楼は山門を入って左上にある。その鐘楼からの山門と門前の巡拝用品を扱う店、飛猿閣(ひえんかく)駐車場は写真の右奥

大窪寺の山門を入ると手水舎があり石段上に大師堂があります

手水舎から回ってまず本堂へ

大窪寺本堂前境内の銀杏

大窪寺本堂と阿弥陀堂

大窪寺の本堂

大師堂でお参りをしてから本堂横の納経所へ、大勢のお遍路さんでごった返す納経所で順番が来て納経、納経口に置いてある小さな紙に氏名を記入して納経時に結願の証(2000円)をお願いすると発行してもらえます。氏名と日付けの墨が乾いてないので注意して(広げて乾かしながら歩いて)大師堂前で記念撮影。

88番大窪寺の納経、墨書き御朱印と開創1200年記念スタンプ Osamekei of Okuboji with the retractor 1200 Memorial special stamp.

88番大窪寺の本尊御影 Principal image card of Okuboji temple is usually black and white. The red card is the retractor 1200 Memorial special.

大窪寺の御本尊は1200年の御開帳で公開中しでしたが、まじかで拝顔出来た為、お参りに来た目の悪い人が自分の眼が治るようにと御本尊の眼に触って御祈りをし、玉眼をおしこんで落してしまい、今御本尊は御不在で入院中(修復のため)と八十窪で聞きました。

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民宿八十窪
香川県さぬき市多和兼割103−5 TEL:0879−56−2031
88番大窪寺で結願し門前の民宿八十窪に11月3日宿泊、宿に入ると名物の大女将さん(おばあちゃん)が出迎えてくれた。
風呂に入り部屋で休息していると 「お食事ができました」 とコールがあり階下の食堂へ

結願祝の夕食の膳

栗の入った赤飯、白いご飯の飯櫃と赤飯の飯櫃があり自由にお代わりできます

鯛の刺身

野菜のてんぷら

酢の物

大根とにんじんの紅白なます

野菜の炊き合わせ

半田そうめん(徳島県つるぎ町の半田地区に伝わる素麺で冷麦ほどの太さがある)

八十窪の大女将さんのお四国は、丁度終戦直後の食べ物の無い物資が不足していた時期、昭和24年(1949)25歳の時に母親から言われ3ヶ月かけて歩き終えられたとの事 (大女将さん今年85歳と言われたが計算上は90歳のはずなのですが?)。 身体が弱かったが、風呂敷背負って一人歩き遍路、草鞋を編みながらの厳しい3ヶ月だったとか。 お米1合で御宿と書いてあるところに泊まったり、物資が不足していた時期で米持参でないと泊めてもらえなかった、持参した米が無くなってからのお遍路は大変だったらしく死ぬ思いをしたと言う。それにお金が無いので宿にも泊まれず稲刈りした後の田んぼの藁の中で寝たり、お金が無いので納経も出来ず、お寺に頼んで紙切れに判だけ押してもらったりしたという。 高野山へは九度山で泊めてもろた家を暗いうちにでようとしたら家の人が親切に大きなおにぎりと小さなおにぎりを渡してくれた。 有難いけんどこんな大きなおにぎりはようたべん、小さいほうだけで良いと家の人に言うと、大きなおにぎりはおまはんのではない案内する犬の分じゃと言われた。 大女将さんは高野山丁石道を犬の案内で歩いて上られた。 わかるとこまで来たら犬は途中で帰りよった。 奥の院に着いた時はやっと着いた、これで終わった家に帰れると思ったら涙が止まらようにながれ座り込んでしまったと言う。 今まで20回お四国をしていると言われたので 「歩いて?〜 おげんきですね〜」「なにゆうとんでだ、くるまじゃよ、この辺は車が無いとふべんなけんいまも運転しよんでよ」 お遍路も來年の高野山開創1200年で21回、それでもう打ち終わりにするつもりとのこと。 「犬がお寺へ案内してくれるの?」 と中高年女性二人ずれのお遍路さん 「ええそうでよ、おまはんや仁王門のほうに来る時に飛猿閣の前で白い犬みんかったで〜」 「ええビッコを引いている犬見かけました」 「あの犬がお遍路さんをここまで案内してきたんでよ、日が暮れ遅くなってもなかなか宿に着かんお遍路さんがいて、なんぞあったんかいな〜とそらま〜案じていたら、シロ(犬)が此処までお爺さん遍路を案内して来たんでよ〜」 「お爺さんは途中暗くなって道が判らんようになって困っていたら懐中電灯に白いものが見え、その後をついてきたらしい、犬のおかげで宿に着けて助かったと言われ、翌朝立つときに犬のエサ代にと1000円おいていかれた」 「そのお爺さん、また別の時お四国を廻られ八十窪に立ち寄った、シロ(犬)は元気にしてますか?」 大女将さんがふと玄関先を見るとお爺さんの気配を感じたんかどうか知らんけどシロが来て座とった。 お爺さんは 「もう来れんかもしれん、シロ元気にしとれよ」 とまたエサ代に2000円またおいていかれた、お金は飛猿閣のねえさんへわたしてシロ美味しもん食わしてやと言うて頼んだ。 その後、そのお爺さんは見かけんようになったけど元気にしてるかどうか? この辺は野良犬が多くシロは野良犬の喧嘩で噛まれてビッコを引いとんでよ、弱いのにけんかするけん噛まれるんじゃ」 シロも野良犬じゃったけんど、飛猿閣のねえさんい頼んで、登録して首輪をはめ注射もしてやってめんどうみとんでよ〜」 昨春の歩き遍路で前山から大窪寺へ来るのに女体山越をしてないと言うと、「女体山越え? ありゃあほんまの遍路道じゃあありゃせん。宮崎さん(へんろみち保存協力会創始者)が、四国の道が出来た時に建設省に頼んで造った道やけん。ほんまは、前山の道の駅ンところから山を越えるンが遍路道なんよ。 昔は丁石がちゃんと並んどった。やけど、道を造る時にほかしてしもて、後ンなって並べたんやけど前の場所とは違うゆうて、工事のモンに怒ったんや。」、宮崎さんゆうたら事故かどうかわからんけんど亡くなった。 それから納札の話しになり50代から歩き始め、30回歩きで回ったという京都のお遍路の話をされ、そのお遍路の錦札を見せて頂いた。歩きは20回で錦札にして良いそうだ。1度で車遍路5回分の価値があると言うことか?。 毎回、八十窪に泊まられ、もう80歳手前なので30回を打ち切りされたそうだ。 大女将さんは中年女性の二人歩き遍路さんと中年男性の歩き遍路さんに 「明日は與田寺に行きない。與田寺は四国の総奥の院やけん。昔は與田寺に寄って終わりやった。やけど、今頃はだぁ〜れも行っきょらん。」 と與田寺に行くことを勧められていた。
大女将さんに、明日車で高野山奥の院へお参りして宿坊に泊まりたいが? と聞いてみた。 大女将さんは20度も高野山へ参っておられ、宿坊はいつも刈萱堂の密厳院を定宿にしているとの事、密厳院がお気に入りで来年の高野山開創1200年大法会(2015年4月2日〜5月20日)は大勢がお参りに行くけんに早めに密厳院を予約されているとの事でした。 長尾寺から大窪寺に来る途中の前山のおへんろ交流センターで高野山宿坊リストを貰ってきていたので食後部屋に戻り、さっそく刈萱堂の密厳院に携帯から電話してラッキーな事に翌日の宿泊予約が取れました。

11月4日の民宿八十窪朝食

焼き魚、梅干し、海苔

鰹節のかかったナスだったか?

ひじき

たまご

大きなお多福まめ

食堂の窓際には日の丸のブレザーを着た女性と小泉総理大臣(当時)のツーショット写真が置いてある。

彼女は大女将さんのお孫さんで、ソフトボール全日本代表でアテネ五輪に行ったということです。そのメダル報告会の時の写真だったのです。写真に写っていたのは、全日本女子ソフトボール乾絵美選手。北京オリンピックの金メダリストである。
民宿八十窪について: 
平成7年に改築したそうです。平成6年に3kmほど手前に旅館 野田屋 竹屋敷という宿が出来た。それまでは大窪寺周辺は八十窪だけだった。当時のこの宿は大部屋で相部屋形式だったそうだ。旅館 野田屋 竹屋敷開業と共に辞めるつもりだったが 「お遍路さん泊めるんが、あんたの楽しみやろ。」 と息子さんが改築してくれたそうだ。道理で綺麗なわけだ。おばあちゃんは若い頃、歩き遍路も経験されている。高野山までも歩いたそうだ。車でも幾度となくお遍路をされている様子だ。部屋には、笠を杖立の上の金属棒に掛けられるようにしてあった。なるほど、こういう使い方が出来るようになっているのだ。この心遣いは、お遍路を経験したおばあちゃんならではのアイデアであろう。