宮島旅行 2

1月5日宇品の朝はよく晴れています。

1月5日の朝ホテルの窓から広島市内方面を望む、宇品と言うところで今は陸続きになっているところで、見えていませんが島の左奥が広島港に当たります

朝食は23階のスカイラウンジでのバイキング

食べ過ぎないようにと少な目にいろいろと盛ってきました。

広島なのでカキの炊き込みご飯を頂き、後はフルーツを食べておきました

ホテル最上階のスカイラウンジも一周して回れるので食後、今日訪れる宮島方向へと廻ってみた。手前が宇品の灯台、小さい島のはるか向こうが宮島方面

前日にホテル前発の宮島行き高速船チケットを1850円で購入しておいた。高速船に乗るのはホテル前の高速船桟橋

広島港から来た高速船に乗り9:31分宮島へと出航

しばらくすると宮島が見えてきた

宮島の桟橋は写真中央

宮島桟橋へ09:57分に到着(ホテルから26分)

宮島対岸の宮島口へはこちらの乗り場から頻繁に船が出ています

表参道商店街(清盛通り)には有名な世界一の大杓子(大杓子が見えるように照度UPしました)

さらに表参道商店街(清盛通り)を歩く。 やきがき、もみじまんじゅうの看板が目立ちます。

表参道商店街(清盛通り)で共存できるのか? たくさんの土産物屋、もみじまんじゅう、食堂があります

表参道商店街(清盛通り)を抜けると御笠浜(みかさのはま)に出て前に石の鳥居が見えてくる

そこから後ろ向きに有之浦(ありのうら)宮島桟橋方向

有之浦(ありのうら)

眼を参道に戻すと厳島神社の大鳥居が見えました

厳島神社の大鳥居

厳島神社の大鳥居

厳島神社の大鳥居

潮干狩りの注意書き

厳島神社(いつくしまじんじゃ)の参拝は300円で順路は一方向です、神社入口(切妻造り)

海の上の回廊

海に浮かぶ厳島神社社殿、海には小さなふぐがたくさん群れて泳いでいました

平清盛が久安2年(1146)安芸守に任官され、平家の守護神として尊崇し、平家一門の権力が増大するにつれてこの社を尊崇する度合いも増し、社殿を現在の姿に造営しました。 都から後白河上皇、建春門院、中宮徳子、高倉上皇建礼門院を始めとする皇族や貴族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。 現在も嚴島神社に伝承されている舞楽は、清盛公によって大阪四天王寺から移されたものです。社殿は、災害により何度か立て替えられていますが、清盛公が造営した当時の姿を伝えられているといわれています。国宝・重要文化財の建造物は17棟3基・美術工芸55点など約260点。東廻廊45間、西廻廊62間。本社の他に客神社・朝座屋・祓殿・高舞台・平舞台・左右門客神社・火焼前・大国神社・天神社・能舞台・反橋・長橋・揚水橋・内侍橋の建物構造群からなっています。 東廻廊入口は切り妻造り、西廻廊入口は唐破風[からはふ]造りで、廻廊幅は約4m・長さ約260m・柱間約2.4m(8尺)・一間に8枚の床板が敷かれています。床板の隙間は、高潮時に床下から押し上げてくる海水の圧力を弱め、また廻廊に上がった海水を流す役目をします。 床板は、現在養生板が敷いてあり、本来国宝の一部である床板の上に敷いてあるところから土足で歩くことができます。(以下の説明は宮島観光協会HPより)

回廊(国宝)東側廻廊は47間[ま](柱と柱の間で、1間は約2.4m)、入口は切妻造りで、屋根は檜皮葺[ひわだぶき]で、棟には棟瓦が載せてあります。西廻廊は、61間あり、西の端(出口)は、唐破風造り[からはふづくり]になっています。昔は、西側が入口であったことがうかがえます。東西併せて約260mあり、1間・1間に釣灯籠が下げられています。

床板は、1間に8枚敷いてあり、釘は使っていません。板と板の間は少し開いており、潮が高い時や台風時に波のエネルギ−を減免・消波する構造になっていて建物を守る工夫が行われています。(スリット構造)この床板には釘が使われていません。また、床は二枚重になっていて、本来の床板は下にあるほうで、上に敷いてあるのは養生板(ようじょういた)といい、参拝者が土足で歩いても良いようになっています。これは近年になって施工されたもので、昔は履物を脱いで昇殿していました。廻廊の釣灯籠は、毛利氏が鋳鉄製[ちゅうてつせい]のものを寄進したのが始まりといわれています。現在のものは、大正時代に奉納されたもので青銅製です。

社殿と五重塔

五重塔の左側の大きな建物は豊国神社 [ほうこくじんじゃ]国重要文化財 通称:千畳閣[せんじょうかく]桁行13間約24m 梁間8間約15m 単層本瓦葺入母屋 木造の大経堂 豊臣秀吉公が、千部経の転読供養をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊[あんこくじえけい]に建立を命じましたが、秀吉の死により未完成のまま現在にいたっています。 明治時代に秀吉公と加藤清正公が祀られ、豊国神社となっています。入母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことができ、軒瓦には金箔が押してあることから完成していれば、さぞや豪華な桃山文化を取り入れた大経堂になっていたと思われます。また堂内には、大鳥居が明治8年に建替えられた時に使った尺定規があります。本尊の釈迦如来[しゃかにょらい]・阿難尊者[あなんそんじゃ]・迦葉尊者[かしょうそんじゃ]は、明治維新神仏分離令のときに大願寺に移されています。

枡形 [ますがた]、客神社祓殿[はらいでん]と廻廊で囲まれたところを、枡形といいます。毎年旧暦6月17日に行われる「管絃祭」で御座船や阿賀・江波の曳船がここで船を3回廻します。 廻廊に大勢のお客様が陣取り、管絃祭のクライマックスを迎えるところです。

客神社 [まろうどじんじゃ](国宝) : 平安時代 御本社と同様に、本殿・幣殿・拝殿・祓殿からなり、嚴島神社の祭典は、この客神社から始まります。天忍穂耳命[あめのおしほみみのみこと]・活津彦根命[いきつひこねのみこと]・天穂日命[あめのほひのみこと]・天津彦根命[あまつひこねのみこと]・熊野櫞樟日命[くまのくすびのみこと]の5男神が祀られています。摂社の中でも一番大きく、嚴島神社の祭事のおりには、一番先に神職がお参りいたします。天忍穂耳命は、天照大神の長子で、農業の神です。天穂日命は、天照大神の子で、農業の神です。天津彦根命は、日の神、雨の神、風の神、火難除けの神として崇敬されています。 祓殿[はらいでん]正面の海側の波除板[なみよけいた]が切れているのは、ここから下へ降りるための出入口の名残といわれています。

高舞台 [たかぶたい]国宝 : 平安時代 舞楽が舞われる舞台です。舞楽とは、楽による舞踊のことで、陵王・振鉾・萬歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など十数曲が、今なお嚴島神社で舞われます。 この舞台は、天文15年(1546)棚守佐伯房顕[たなもりさえきふさあき]が、高舞台の擬宝珠[ぎぼし]を奉納したことがわかります。高舞台は、四天王寺の石舞台・住吉大社の石舞台と共に日本三舞台といわれています。向こう正面は火焼前[ひたさき]
火焼前[ひたさき]左右の神社は、右門客神社 [みぎかどまろうどじんじゃ] 左門客神社 [ひだりかどまろうどじんじゃ](国宝) ご祭神は豊石窓神[とよいわまどのかみ]・櫛石窓神[くしいわまどのかみ]です。平成3年の台風19号・平成16年の台風18号能舞台・高舞台・平舞台と共に大きな被害を受けたところです。

平舞台の回廊と社殿

灯篭と向こうには五重塔と千畳閣

灯篭下は少し潮が引いてきました

高舞台と平舞台

平舞台を廻る

火焼前[ひたさき]=(元はかがり火をたいていた)の灯篭と大鳥居

社殿と回廊

天神社の奉納絵馬

能舞台 [のうぶたい] 国重要文化財:切妻造・桧皮葺 永禄11年(1568)毛利氏は、観世太夫を招き、仮の能舞台を海中に設けさせ、能を奉納しました。現在の建物は、延宝8年(1680)広島藩主浅野綱長により改修されたもので、天神社と同じく、建造時期が下がりますので、丹塗りはしていません

天神社 [てんじんじゃ] 国重要文化財 : 祭神は菅原道真公 学業の神様です。ご創建は、弘治2年(1556)毛利隆元によって寄進されました。能舞台と同じく、素木(丹が塗っていない)なのは、社殿群の中では新しい建物で、時代が下がるためです。古くは連歌堂[れんがどう]といい、明治時代の初めまで毎月連歌の会が催されていました。

特徴は、日本で唯一海中に建てられている。切り妻造りであり、笛柱が独立している。海中にあるため、通常床下に共鳴のために置かれている甕が無いことです。代わりに、床下の根太が三角形で、その上に床板を張り、大きく響くように工夫されています。毎年4月16日から3日間桃花祭神能が行われ、初日と2日目には、初めに翁が舞われ、3日間とも五番立で、間に狂言が入り、江戸時代からの本式な演能を観ることができます。平成3年の台風19号で倒壊いたしましたが、古材をできるだけ使用し、平成6年に再建されました。

東側廻廊

東側廻廊

東側廻廊

反橋 [そりばし]国重要文化財、別称:勅使橋[ちょくしばし]・たいこばし 長さ約24m、幅4m、高欄は丹塗り・橋脚は墨塗り鎌倉期に既にあったが、現在のものは弘治3年(1557)毛利元就・隆元父子により再建されたものです。

厳島神社出口(唐破風造り)

弁財天を祀る大願寺

天神社

昼食は表参道を大杓子付近まで戻って

この店、夢地蔵の隣、こじんまりとした厳庄であなご重を注文書ました

あなごめしの価格帯は1350〜1800円位で店によりいろいろであった。

自家焼き穴子に自家製のたれがかかった巌庄(がんしょう)のあなご重は香ばしく美味しかったです。