信貴山 朝護孫子寺

2016.12.26(月)信貴山 朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)へ出かけました。朝護孫子寺醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)」 の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。

駐車場から朝護孫子寺参道の石灯籠

信貴山観光センターで信貴山マップをゲット

朝護孫子寺のマップ境内図 (朝護孫子寺HPのPDF境内図より)

信貴山観光センター前の小寅

信貴山観光センター前の小寅

信貴山観光センターから右へ歩き仁王門を一旦出る

仁王門の外参道には千体地蔵が祀られています

仁王門外参道の千体地蔵

改めて仁王門から入山

信貴山仁王門の仁王像

信貴山仁王門の仁王像

信貴山仁王門の狛犬

信貴山仁王門の狛犬

仁王門を入ったところから望む信貴山朝護孫子寺の本堂

大門池と信貴大橋

開運橋

松月(しょうげつ)

山菜そば

天婦羅そば

稲荷ずし

開運橋

昭和六年十二月竣工の開運橋は文化遺産です

信貴山観光センター前を左の参道を境内へ

開山堂への参道に立つ修行大師像

世界一の福寅

大寅と信貴山朝護孫寺の本堂

信貴山と虎
今から千四百年前、日本の国を乱す朝敵物部守屋を討伐する為、聖徳太子が、此の山に来たり、戦勝の祈願されると頭上に毘沙門天王が出現され必勝の秘法を授けられました。奇しくもその日は寅年、寅の日、寅の刻でありました。太子はそのご加護で敵を滅ぼされ、世収まりて後、自ら天王の御尊像を彫まれ、伽藍を創建して、信ずべき、貴ぶべき山「信貴山」と名づけられました。以来、信貴山毘沙門天王は虎に縁りの福の神として、寅年、寅の日を縁日と定め大法要が行われます。

大寅の脇に立つ酉の灯篭

大寅の脇に立つ酉の灯篭

その右下にも虎、虎、虎

すこし戻るかたちで剣鎧護法堂(けんがいごほうどう)への鳥居参道を下りました

剣鎧護法堂(けんがいごほうどう)の由来。今から千百年前、醍醐天皇が重い病に罹られた時、当山の高僧命蓮上人(みょうれんしょうにん)が勅命により毘沙門天王に病気平癒の祈願をされました。数日後加持満願の日剣鎧護法の使者が天皇の枕元に出現されて、霊感を授けられると忽ち天皇の病は癒され心安らかになられました。そこで、この地に剣鎧護法を当病平癒の守り本尊として、祀られ日夜勤行されました。以来、庶民の間にこの事が言い伝えられ無病息災、病気全快の霊験あらたかな神として篤く信仰される様になりました。

剣鎧護法堂の拝殿

剣鎧護法堂の狛犬

剣鎧護法堂の狛犬

剣鎧護法堂

剣鎧護法堂拝殿の扁額

剣鎧護法堂の社務所前からの剣鎧護法堂

鳥居参道を大寅まで戻ります

鳥居参道を大寅まで戻ります

赤門をくぐり千手院へ  (赤門の写真はHPより借用)

千手院のかんのんどう護摩堂の御本尊は毘沙門天王、約1千年前に命蓮上人が 開壇され、
以来、毎朝日護摩を焚いてます

千手院の虎、信貴山で一番古いと言われている笑寅

千手院からの参道石段

三宝
中尊に悪魔をこらしめる為にこわい顔をして、人々を守る明王不動明王」を安置。右にすべての人々を救う西方極楽浄土の仏様「阿弥陀如来」、左に仏教の守護神かまどの神様「三宝荒神」を祀っております。殊に三宝荒神は、火難水難除けの台所の神様「三宝(さんぼう)さん」として親しまれお祀りされています。不動明王真言:ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン  阿弥陀如来真言:オン・アミリタ・テイゼイ・カラウン  三宝荒神真言:オン・ケンバヤケンバヤ・ソワカ

信貴山朝護孫子寺の本堂への石畳、

鳥居より奥は写生禁止

信貴山朝護孫子寺本堂の社務所で舞台からの景色はカメラで写してよいか確認、
左端に見えるのが開山堂

信貴山朝護孫子寺本堂の舞台

信貴山朝護孫子寺本堂の舞台から大和平野を眺望
朝護孫子寺戒壇巡りの錠前には、800年前に紀州根来寺を創建された
覚鑁上人(がくばんしょうにん)が納めた如意宝珠が入っています。
宝珠を触ると願いが叶うそうです。真っ暗な戒壇を60メートルぐらい歩くミニ修行でした。

本堂の舞台から階段を下り、虚空蔵堂への石段を上がり見える西の玉蔵院

虚空蔵堂よこの十三重の塔

空鉢護法へは左の参道から上ります

多宝塔

多宝塔から山上の空鉢護法へは左の鳥居参道から上ります

空鉢護法参道途中の祠

空鉢護法略縁起
空鉢護法は剣鎧護法と共に、毘沙門天王の御分身であらせられ信仰篤き者には一願成就必是のあらたかな神様です。空鉢様は巳の姿(龍神)で出現し給うことがあると伝えられています、

空鉢堂の舞台

空鉢堂の舞台からの眺望

空鉢堂の舞台からの眺望

空鉢堂の舞台からの眺望、右下は信貴山観光ホテル

空鉢堂

空鉢堂拝殿の軒先

空鉢堂

空鉢堂

空鉢護法の手前に立つ信貴山城址の石柱

信貴山城址に立つ幟

空鉢堂から下り右へまわると玉蔵院

玉蔵院の水掛け不動尊

玉蔵院

玉蔵院から成福院への石畳参道

玉蔵院

玉蔵院

玉蔵院

如意融通尊(如意融通宝生尊)
私たちが日頃「融通(ゆうずう)がつく」とか「融通がきいた」と申しますのは、この融通尊をお呼びしているのです。この如意殿の本尊様は、宝生尊と申して、福徳自在・如意円満の御方で、至心に信仰すると、意の如く、心のままに、どんな融通事でも、必ず叶えてくださるところから、如意融通尊と申すのです。融通さんの御真言は:オン、アラ、タンノウ、サンバン、バタラク 成福院の融通さま、後嵯峨天皇の御念持佛を下賜されたもので、至心に念ずればいかなる願いも叶えてくださいます。『金運隆昌を融通』『勝運勝利を融通』『智慧学力を融通』『人徳愛嬌を融通』『良縁合縁を融通』『子宝安産を融通』『息災延命を融通』

かやの木稲荷神社と榧の御神木

榧(かや)の御神木樹齢1500年の榧の木、蘇我一族と物部一族が政治の実権を握るため争っていた大和朝廷の時代に、一粒の榧の実が萌芽して以来、有為転変する世相を鳥瞰してきた御神木です

聖徳太子

このお山は、み佛、毘沙門さまが日本で一番最初に尊いお姿を現されたお山で信貴山と申します。今から千三百年前もの昔、聖徳太子さまが、このお山にお登りになり悪徒平定をお祈りに成りますと、毘沙門さまが不思議な霊力をもった弓と箭をお授けになりました。大使さまは、夫れをもって悪徒を征定されました。そこでこのお山は 「誠に信ずべく貴いお山だ」と迎言られてから今日まで 「信貴山」 と申し伝えています。当院先々代の恵照大和尚はこの因縁を信奉して、騎馬太子の尊像をこの地に建立し、信者の方々と共に遺徳を偲んで来ましたが、過ぐる東亜の戦いに供出してからは、久しく尊いお姿を拝むことが出来ませんでした。同先代了通和尚は痛くこれを嘆き、再建を念願されながらも果たし得ず遂に先年遷化されました。私は先師二代の悲願遺志を継ぎ、篤信の特志を得、更には斬界の大元老にして現代最高峰の大家、北村西望大先生直々の塑像に成るこの尊像の再建復元を拝することを得ました。塾々毘沙門尊天と聖徳太子の御霊徳を感じつつ信者各位と共に信仰倍増に資し度く蕪辞を列ねてこの由来を誌します。 昭和五十四年春三月 福院大僧正 鈴木凰永

虎の像

虎の像

開山堂
堂内に須弥山のような山に四国八十八ヶ寺の御本尊が配し祀られ、前後左右には聖徳太子弘法大師、歓算上人、命蓮上人の四名が合祀されていています

開山堂
享保17年(1722)建立。願主は河内国本堂村教心坊(盲人)他2名。信貴山開祖 聖徳太子、宗祖 弘法大師、中興開山 命蓮上人 歓算上人、四国八十八ヶ所ご本尊さまをお祀りしているお堂です。八十八カ所各寺のお砂も敷いております。お砂踏みめぐりをされ、心洗われる仏縁のひとときをお過ごしください。開山堂の厄除ローソクは、白:息災(除災招福・当病平癒・交通安全等)、黄:増益(開運招福・学業成就・商売繁盛等)、白+黄で「開運厄除け」になります。

開山堂からの本堂

開山堂からの境内

開山堂内の献灯は水にそっと浮かべたロウソクに火をともして行います「開運厄除け」

命蓮上人の墓所文化財

命蓮上人の墓所文化財

命蓮上人の墓所からの開山堂




信貴山観光ホテル

信貴山観光ホテル男湯の露天風呂

男湯の露天風呂、信楽焼の湯桶の湯は冷泉

信貴山観光ホテル男湯の露天風呂

信貴山観光ホテルの夕食

お造りは生麩、マグロ、炙りさわら、サーモン

松葉ガニ

向こう付、サツマイモ、玉子焼き、一口おにぎりおぼろ巻き、クリ、枝豆

卵豆腐

すき焼き

アワビのバター焼き

焼きあがったアワビのバター焼き

すき焼きも出来上がり

御飯と味噌汁、香の物

天婦羅

天婦羅の抹茶塩

茶碗蒸し

茶碗蒸し

デザート

ショートケーキ

ミカンのジュレ

名物のおはぎ



翌朝の朝食

朝食の膳

大和雑煮

からし椎茸

塩鮭とかまぼこ

煮豆、白和え、温泉卵

野菜サラダ

冷や奴

イカソーメンの造り