四国霊場逆打ち車遍路 🚘 43 高野山-1
2016.11.09(水) 高野山
四国霊場逆打ち車遍路も高野山奥の院の弘法大師にお礼のお参りに
この日は防災の日で六時の鐘の前の駐車場は消防車専用で閉鎖
高野山観光センターの駐車場に車を停めた、正面石垣の上が時の鐘
六時の鐘
六時の鐘
六時の鐘下の公衆トイレ
成福院の摩尼宝塔
成福院の看板犬は消防車のサイレンに飛び出してきた
一の橋の手水舎
高野山奥の院、一の橋
高野山奥の院参道の弘法大師腰かけ石
高野山奥の院参道の弘法大師腰かけ石
高野山奥の院参道の弘法大師御護摩石
中の橋と汗かき地蔵堂
汗かき地蔵堂
高野山奥の院参道のお化粧地蔵
高野山奥の院の玉川に架かる御廟の橋(みみょうの橋)
高野山奥の院の御廟橋
奥の院参道の3つ目の橋は「御廟の橋(みみょうの橋)」と呼ばれ、その名の通り弘法大師御廟のすぐ手前にかかっています。 36枚の橋板があり、更に橋全体を1枚と数えて、金剛界の三十七尊を表しています。橋板の裏側には、一枚ずつ梵字が刻まれています合掌一礼し、御廟橋を渡ります。この先は撮影厳禁。木立の奥に見えるのが御廟前にある燈籠堂です、御廟の橋を渡って左奥には「弥勒石」という黒い石が安置されていて、これに触れると弥勒菩薩のご利益があると言われています。持ち上げると、願い事がかなうそうです。 この橋より先は聖域中の聖域であり、写真撮影も禁止されています。御廟の橋の100メートル先、弘法大師御廟の手前に建つ燈籠堂は、高野山第二世の真然大徳(しんぜんだいとく)が建立し、治安3年(1023年)に藤原道長が拡張したお堂です。 堂内には祈親(きしん)上人が献じた祈親燈(きしんとう)、白河上皇が献じた白河燈、貧女の一燈(いっとう)、昭和時代に献じられた昭和燈が「消えずの火」として燃え続けています。奥の院の最深部に建つ弘法大師御廟は、壇場伽藍と並んで高野山の信仰の中心となってきた聖地です。 弘法大師・空海は現在でも、ここで生身のまま禅定に入っている(入定)と信じられています。
四国88ヶ所の納経は奥の院御供所(ごくしょ)です (四国別格20霊場の納経は金剛峯寺)
御廟橋右手のふどう護摩堂
水向け地蔵
水向地蔵では経木を奉納し、水を手向け、ご先祖様の供養をします。たくさんのお地蔵様が並んでいます。
水向け地蔵
御廟の橋の右手前に鎮座する仏像は「水向地蔵」で、先祖供養の地蔵です
高野山奥の院の紅葉
三山巡り参拝道
御供所の嘗試地蔵(あみじぞう)お大師さまへお供えする食事を、まずはこのお地蔵様にお供えして味見をしてもらう場所です。
御供所の嘗試地蔵(あみじぞう)
毎朝、行法師(ぎょうぼうし)が御供所で食事を作り、お大師さまに1日に2度、6時と10時30分に食事をお供えする場所です。納経所も兼ね備えているので、奉納もここで受け付けています。まず嘗味地蔵(あじみじぞう)に供えて味見をしてもらってから、弘法大師御廟に運びます。
護摩堂に「四十二才厄除 弘法大師 御自作彫像」の額
その弘法大師御自作彫像
護摩堂の不動明王坐像
御供所と嘗試地蔵(あみじぞう)
御供所(ごくしょ)は、御廟で入定しているとされる弘法大師の食事を作っている場所です。
玉川と水向け地蔵
玉川と水向け地蔵
高野山奥の院の紅葉
御供所(ごくしょ)は納経所も兼ねております
護摩堂
手水舎
御供所(ごくしょ)の門
浅野内匠頭の墓所
奥の院参道
奥の院参道
奥の院参道
奥の院参道の成功地蔵尊像
奥の院参道
結城秀康墓所
法然上人墓所
高野山奥の院墓所
高野山奥の院墓所
高野山奥の院墓所
芭蕉句碑 父母のしきりにこいし 雉子の声
芭蕉句碑 父母のしきりにこいし 雉子の声
奥の院参道
奥の院参道
奥の院参道
中川家墓所
高麗陣敵味方戦死者供養碑
高麗陣敵味方戦死者供養碑
慶長四年(1599)に薩摩藩主島津義弘・忠恒の父子が高麗戦争における敵と味方の戦死者の霊を供養する為に建てたもので日本武士道の博愛精神の発露として知られる。
奥の院参道
奥の院墓所
奥の院参道
奥の院参道
「中の橋」または「二の橋」と汗かき地蔵堂
中の橋の下を流れるここの川は「金の川」または「死の川」と呼ばれています。中の橋を渡ることで、あの世にまた一歩近づいたことになります
汗かき地蔵を祀るお堂があります。巳の刻(午前9時から11時)に汗を流すと伝えられ、「高野七不思議」の一つです。汗をかくのは、世の中の苦しみを地蔵尊が一身に受けるためとされます。 その右手には「姿見の井戸」があります。水が張ってあって顔が映るようになっていますが、もし映らなければ3年以内に死んでしまうとの言い伝えがあります。
このお堂「密厳堂(みつごんどう)」といって、平安時代後期の高僧・覚鑁(かくばん、興教大師、1095-1144年)が祀られています。覚鑁上人は新義真言宗の開祖で、根来寺を建てた人物です。
密厳堂(みつごんどう)」
奥の院参道
島津家墓所
奥の院参道
阿波蜂須賀家墓所
奥の院墓所
奥の院墓所
奥の院参道
奥の院参道
奥の院参道
竹田信玄勝頼墓所
参道の石仏
奥の院の墓所
岡山津山森家墓所
五つの五輪塔
和食おぐらで昼食を頂きました
和食おぐらの鍋焼きうどん 750円
鍋焼きうどん
一の橋の手水舎と紅葉
一の橋の紅葉
高野山の寺院
密厳院、門前に石道丸の母親、千里姫の墓があります
苅萱道心と石道丸の刈萱堂と密厳院
高野山のメインストリート
成福院の摩尼宝塔
松栄堂
松栄堂のやきもち 130円x2
やきもち
松栄堂でやきもちとお茶を頂きました
持明院の石柱門
高野山のメインストリート
金剛峯寺の石柱門
金剛峯寺正門前参道の紅葉
金剛峯寺正門前参道の紅葉
金剛峯寺の手水舎
金剛峯寺の正門
金剛峯寺前駐車場より境内に入って来るとき、最初にくぐられる門を正門といい、金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っています。右のほうを見ますと小さな入り口があります。このくぐり戸は一般の僧侶がもっぱら使用しています。昔はこの門を正面から出入りできるのは天皇・皇族、高野山の重職だけでした。一般参拝の方はあまり関係のない話ですが、高野山では門の出入り一つでも、厳しいルールが存在したのです
高野山には寺紋が二つあります
五三の桐は豊臣秀吉拝領の青厳寺(せいがんじ)の寺紋
三頭右巴は高野山御鎮守・丹生都比売(にうつひめ)神社の定紋
屋根に天水桶を上げた金剛峯寺
經堂
延宝7年(1679年)3月、大阪天満の伊川屋から釈迦三尊と併せて寄進されたものです。経蔵は重要なものを収蔵するところなので、火災が発生しても安全なように主殿(しゅでん)とは別に建てられました。
金剛峯寺の鐘楼
門をくぐって右手に見えます鐘楼は、金剛峯寺の前身であります青巌寺の鐘楼です。その構造形式から万延元年(1860年)に大火(たいか)で類焼後、大主殿などの建物と共に鐘楼も元治元年(1864年)に再建されたものと考えられます。桁行・三間、梁行・二間、袴腰付入母屋造り(はかまごしつきいりもやづくり)の形式で、県指定文化財となっています。
金剛峯寺の正門
金剛峯寺の境内
屋根に天水桶を上げた金剛峯寺
拝観と納経所入り口
四国別格20霊場の納経は金剛峯寺です (四国88ヶ所の納経は奥の院の御供所です)
屋根に天水桶を上げた金剛峯寺
この小玄関、高野山では上綱(じょうこう)職の方々がもっぱら使用されます。
総本山金剛峯寺寺務所
金剛峯寺
金剛峯寺の境内
金剛峯寺正門前参道の紅葉
金剛峯寺正門前参道の紅葉
金剛峯寺の正門
六時の鐘
高野山のメインストリート
成就院
高野山の紅葉
霊宝館
霊宝館
壇上伽藍の中門
壇上伽藍の中門
壇上伽藍の中門の右には蓮池がある
壇上伽藍の中門
壇上伽藍の紅葉
高野山の西の端にある大門
外気温は6.7度
高野山の大門と鳥居
高野山の大門前には九度山の慈尊院からの丁石道が上がってきています
高野山の大門の左側
高野山の大門の右側
大門に掲げられている柱聯(ちゅうれん)です。右側には「不闕日日之影向」、左側は「検知處々之遺跡」と書かれていることが判りました。言われてみれば、そのように読み取れます。
これは「日々影向文」と呼ばれるものの一部で、全文は「卜居於高野樹下 遊神於都卒雲上 不闕日々之影向 検知處々之遺跡」だそうです。その意味は「弘法大師は高野山を入定の地と定め、弥勒の浄土である都卒天の雲の上におりつつ、弘法大師のいわれのある旧跡や遺跡に日々影向する」と解釈されるそうです。
高野山の大門の仁王像
高野山の大門の仁王像
高野山の大門の仁王像
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高野山の大門の仁王像
高野山の大門
高野山の大門
高野山の大門
高野山大門の紅葉
高野山大門の紅葉
高野山の大門
高野山の紅葉
高野山の紅葉
高野山の紅葉
高野山壇上伽藍 (高野町観光協会より)
高野山壇上伽藍の中門
高野山壇上伽藍中門の四天王、持国天像
高野山壇上伽藍中門の四天王、持国天像
高野山壇上伽藍中門の四天王、多聞天像
高野山壇上伽藍中門の四天王、多聞天像
高野山壇上伽藍中門の四天王、広目天像
高野山壇上伽藍中門の四天王、広目天像
広目天像は、大きく目を見開いているので、耳で聴いても、その気迫がわかるようにと、
胸元にしゃんしゃんと鳴くセミ(蝉)をとまらせたという。
高野山壇上伽藍中門の四天王、増長天像
高野山壇上伽藍中門の四天王、増長天像
増長天像は〝断じて悪を通さない。後へは引かない〟格好なので、胸元に前へ前へ飛ぶトンボ(蜻蛉)で表したそうです。
高野山壇上伽藍の金堂
高野山壇上伽藍の金堂
高野山壇上伽藍の六角經堂
高野山壇上伽藍の六角經堂
昨夏は回すのが重かったが修理したのか一人でも簡単に回せるようになっておりました
高野山壇上伽藍の六角經堂
高野山壇上伽藍の御社はお大師さまが弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とされました。
高野山壇上伽藍の金堂と六角經堂
高野山壇上伽藍の御社
御社の鳥居には、第一の宮 丹生都比売命気比明神、第二の宮 高野明神(狩場明神)巌島明神、第三の宮 十二王子 百二十伴神、御大師様は黒白二匹の犬を連れる一人の狩人に身を変えられた高野明神に導かれて高野山麓の天野に至 丹生明神より高野山の地を与えられたと云われ丹生 高野の両大明神は高野山の地主神である
高野山壇上伽藍の御社
高野山壇上伽藍の御社
高野山壇上伽藍御社の拝殿、山王院からの西塔
高野山壇上伽藍の西塔はお大師さまの伽藍建立計画案である『御図記』に基づき、真然大徳によって建立されました。
高野山壇上伽藍の鐘楼
高野山壇上伽藍の紅葉
高野山壇上伽藍の御影堂と根本大塔
高野山壇上伽藍の孔雀堂は東寺長者延杲が孔雀法を用いて雨を降らせ旱魃に苦しむ都を救ったことに対して 後鳥羽上皇はこの堂を建てて報謝しました。右は准胝堂、本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立されたと伝えられています。
高野山壇上伽藍の根本大塔
高野山壇上伽藍三鈷の松と御影堂
高野山壇上伽藍、御影堂と鐘楼
高野山壇上伽藍、御影堂の濡れ縁からの根本大塔
高野山壇上伽藍、御影堂の濡れ縁からの境内
高野山壇上伽藍、三鈷の松
高野山壇上伽藍の御影堂
高野山壇上伽藍、大塔の鐘、高野四郎
左から高野山壇上伽藍の金堂、三鈷の松、御影堂
高野山壇上伽藍の灯篭と大塔の鐘、高野四郎
高野山壇上伽藍の愛染堂と大会堂
高野山壇上伽藍の愛染堂
高野山壇上伽藍の愛染堂と大会堂
高野山壇上伽藍の大会堂
高野山壇上伽藍の不動堂からの愛染堂
高野山壇上伽藍境内の紅葉
不動堂からの根本大塔
高野山壇上伽藍の西行桜と三昧堂、東塔
高野山壇上伽藍境内の紅葉
高野山壇上伽藍境内の紅葉
高野山壇上伽藍の東塔
高野山壇上伽藍の手水舎
高野山壇上伽藍の紅葉
夕暮れの根本大塔、大会堂と東塔
夕暮れの手水舎、根本大塔、大会堂と東塔
高野山壇上伽藍の紅葉
高野山壇上伽藍の紅葉
蛇腹坂
金剛峯寺
金剛峯寺の天水桶
金剛峯寺の屋根梯子
金剛峯寺の廊下 (ふすま以外は写真撮影OKです)
金剛峯寺の廊下濡れ縁からの鐘楼と正門
金剛峯寺の境内
金剛峯寺の庭園
金剛峯寺の庭園紅葉
新別殿
昭和59年(1984年)、弘法大師御入定・1150年御遠忌大法会の際、大勢の参詣者への接待所として新設されました。鉄筋コンクリート造りですが、本山の荘厳に合わせて入母屋の荘重なもので、91畳と78畳の二間からなっており、仕切りを外せば169畳の大広間に早変わりすることができます。平素は参拝者の休憩所としてお茶の接待をさせていただいており、僧侶の法話も随時行われています
新別殿の床の間
新別殿の両部曼荼羅と弘法大師掛け軸
新別殿の大きな硯
造花の紅梅、白梅、紅梅
新別殿の木目込みの阿弥陀聖衆来迎図
蟠龍庭(ばんりゅうてい)
新別殿と同じく、弘法大師御入定1150年・御遠忌大法会の際に造園されました。2,340平方メートルの石庭は、国内で最大級を誇っています。この石庭では、雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されています。龍を表す石は、お大師さまご誕生の地である四国の花崗岩が、雲海を表す白川砂は京都のものが使われています
蟠龍庭(ばんりゅうてい)
蟠龍庭(ばんりゅうてい)
金剛峯寺の新別殿の中庭
上段の間の前にある庭は江戸期に作られたと伝えられ、当時は池の周りに高野六木(こうやろくぼく)(杉・檜・松・槇(まき)・栂・樅)がそびえ立っていたそうです。馬酔木(あせび)も石楠花(しゃくなげ)の花も見られ、自然の素朴さが心を和ませてくれます。春の中旬より石楠花の花が赤や白色に咲き乱れ、梅雨近くになれば天然記念物のモリアオガエルの卵が池の周囲に産み付けられます。秋になれば紅葉に彩つき、やがて冬には一面銀世界へと変っていきます。四季折々の風景が眺められる庭園です。
金剛峯寺の新別殿の庭園
金剛峯寺の寺紋、高野山には寺紋が二つあります
三頭右巴は高野山御鎮守・丹生都比売(にうつひめ)神社の定紋
五三の桐は豊臣秀吉拝領の青厳寺(せいがんじ)の寺紋
台所、炊事場
土室(つちむろ)
この部屋は囲炉裏の間で、土室と呼ばれています。土室とは「土を塗り固めて作った部屋」という意味です。高野山はご存じのように、冬場は非常に厳しい土地です。暖をとるための工夫として土壁で囲んだ部屋の中に囲炉裏を設け、できるだけ保温効果を高め、風寒(ふうかん)をしのぎました。囲炉裏は天井まで4本の柱と壁が立ち、煙を天井から屋根の外に抜くようにできています。火袋には小棚が設けられており、弁財天さまをおまつりしています。ただし、その由来などについては伝わっていません。
大きな「かまど」は現在も使われます。炭をおこす場所には防火対策として大きな煙突が配置されています。 天井からつり下ろした台には食物が保存されていました。天井からつることで風通しをよくし、さらに紙を垂らすことによってネズミの侵入を防いでいました。一つの釜で約七斗(98キログラム)のご飯を炊くことができる大釜が三基並んでいます。三つで一度に二石(約2,000人分)のご飯を炊いたものです。昭和50年代まで、年末の餅つきの際に使われていました。二石釜の真上には行灯が釣られ、正面には台所の神様である三宝荒神をおまつりしています。
金剛峯寺
無量光院の宿坊に泊まりました、手前右の松は三鈷の松
無量光院の本堂
無量光院、宿坊の部屋
無量光院、宿坊の部屋
無量光院、宿坊の部屋
無量光院の精進料理の膳
無量光院の精進料理
無量光院の精進料理
野菜の天婦羅
胡麻豆腐
生麩の和え物
サツマイモ
高野豆腐、大根、シイタケ、蒲鉾、オクラ、人参を巻いたアゲの炊き合わせ
生麩の和え物
煮豆