四国88箇所 🚙 54 徳島から高野山

四国88箇所車遍路 🚙 徳島から高野山

Shikoku pilgrimage 88
2014-11-04
高野山奥の院 その1

八十窪での朝食後、377号右折、西山で40号〜引田IC徳島・神戸〜り板野IC〜1号藍住IC〜徳島、11号川の後189号からカーブを徳島港

何十年ぶりに南海フェリーに乗船、以前は車検証をもって乗船券を購入したのが、いまではドライブスルーになって便利でした。 ただ乗船名簿を書かない為、万一事故の場合は誰が乗船していたのか運航会社は把握できないと思う。乗船したフェリーは上りの4便、徳島港0800に出航し和歌山港1010入港予定の便。この南海フェリー南海電車のお得に関西方面へお出かけ「好きっぷ2000」があり徳島から、なんば・高野山関西空港をはじめとする南海主要駅へ、フェリー+電車コミコミ2,000円で行ける。これを利用すると徳島港和歌山港〜南海灘波〜高野山〜南海難波と利用できるので歩き遍路には格安で便利でしょう。逆に88箇所を始めるお遍路が徳島へ行くのに便利な徳島好きっぷがあるそうです。見えている橋は末広大橋。

末広大橋の左手方向には津田山が見えています

フェリーは和歌山へ

和歌山港が見えてきました。

1010に和歌山港に入港、16号24号高速を越え川を越え24号ラーメン丸藤右折480号、から高野山の予約している宿坊、刈萱堂横の密厳院へ着いた。

昼時、予約しておいた宿坊に到着したが、宿坊へのチェックインには少し早すぎる為、宿坊刈萱堂密厳院に駐車場所を聞いてから門前に車を停めた。
密厳院略縁起(宿坊のパンフより引用)高野山密厳院は真義真言宗の開祖興教大師覚鑁(かくばん)上人(1095-1144年)の御開基にかゝる浄刹であります。興教大師は、此の密厳院を御創建になって、常に此処に住され、厳修練磨、密教仏国土に往詣された所よりして、密厳上人と称し奉っているのであります。更に大師は紀州根来山に大伝法院を創立して、真言宗智山派豊山派の基礎を定められたのであります。現在の建物は昭和6年に改築致し、その古跡を保存しているのであります。刈萱、石堂丸の逸話で有名な刈萱堂は、当院の所属になっており、即ち当院はその本院になっております。刈萱親子は40年の長き期間、この堂に於いて親子名乗りを致さず修行致したことは、当時女人禁制の高野山の掟に依り母を山麓の学文路の宿に残し、父を探し求めて登山した石堂丸の帰りを待ちきれず亡くなった悲劇と共に、現在に至る迄人の涙をそゝるものがあります。今の世に親子地蔵尊として、信仰を受けているのであります。

密厳院の前の地蔵院

奥の院お参りの前に食事をしようと一の橋へ歩いてゆくと橋の手前は紅葉がきれい

一の橋の手前の紅葉、一の橋の前には観光センターがあって食事が出来るのだが、この日はバスが何台も停っていて食堂は団体専用貸切、センターの人に近くに食事が出来るところをと聞いてその道順に歩いてゆく

かなり歩いたように思うが食堂 「和食おぐら」 に着いた

店内には作務衣を着た寺関係の人たちが多くほぼ満員状態、運よく席が見つかり他のテーブルを見ると鍋焼きうどんを食べて居る、それを見て注文は鍋焼きうどんにした。

具だくさんの鍋焼きうどん(750円)を食べて体が温まりました

奥の院への参道一の橋

「和食おぐら」で食事を終え一の橋まで帰ってきたが観光センター前にはまだ観光バスが停まっている

一の橋の紅葉

一の橋の紅葉

奥の院の参道

奥の院の参道

奥の院参道脇の老杉

奥之院参道を一の橋からしばらく進み、右手に「武田信玄武田勝頼墓地(県指定 史跡)」があり、その近くに腰掛け石と呼ばれる石がありました。 弘法大師がこの石に腰を掛けて、休息されたという言い伝えがあるそうで、本来は「息処石」と書いたそうです。

その息処石には御賽銭やお札が

奥之院参道

参道には三つの橋がある 「一の橋」の次が「中の橋」中の橋橋を渡って左側に「汗かき地蔵」「姿見井戸」がある汗かき地蔵、奥の院の中間地点、中の橋を渡るとすぐの地蔵堂の中には汗かき地蔵堂。この汗かき地蔵は世の中の人々の苦しみを身代わりになり、一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられています。

汗かき地蔵をお祀りしているお堂の右側にある小さな井戸は「姿見の井戸」と呼ばれ、この井戸を覗きこんで自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうと言われているのだとか。さらに、昔の人はこの水で目を洗えばどんな眼病も治ったと言われています。井戸を覗いて自分の姿が映るのを確かめておきました。

奥之院参道

ここが「奥の院」の入口 「御廟橋」 この橋から先は霊域で撮影も禁止。正面に見えるのは燈籠堂その奥に弘法大師御廟があります。参道三つ目の玉川にかかる「御廟橋」(別名「無名橋(煩悩をとる橋)」) これより奥 撮影・マイク使用・喫煙・飲食禁止、写真中央が大師信仰の中心霊域 弘法大師御廟・燈籠堂 この橋を渡り罪けがはらわれ仏の浄土へ導かれると信じられている。橋を渡って左手に小さな弥勒堂があります、中には弥勒石があり弥勒堂の格子の間から手を入れて弥勒石に触れるようになっていました。(撮影禁止場所の為写真はありません)

奥の院弘法大師御廟・燈籠堂参詣を終えて、玉川べりの厄除護摩堂へ

隣が納経所

高野山奥の院の納経、墨書き御朱印

茶堂

御供所(今も弘法大師に食事を作って奥の院の御廟御供えしているところ)

御供所

御供所

御供所の紅葉

奥の院の参道

奥の院の参道

密厳堂、奥の院から中の橋戻る途中の参道は登り坂、その登り坂の中腹くらいに左に階段があり、その先に密厳堂というお堂が建っています。ここは高野山を中興した興教大師覚鑁(かくばん、興教大師、1095-1144年)を、祀るお堂です。 興教大師は高野山中興の後、高野山を追われ根来寺新義真言宗を開きました。 興教大師の開いた新義真言宗は現在は根来寺新義真言宗智積院の智山派、長谷寺豊山派の3つに分派しました。特に智山派は関東に多く、高尾山薬王院成田山新勝寺も智山派の流れを汲みます (Webより引用)

密厳堂前の参道を中の橋へは少し下り坂

その参道、杉の空洞に石仏が祀られていました

中央には中の橋

奥の院の参道

奥の院の参道

奥の院の参道

奥の院の参道

一の橋へ戻ってきて三度見上げた紅葉

高野山刈萱堂の紅葉

高野山刈萱堂の紅葉

高野山刈萱堂は、藤原の繁氏(しげうじ)と石童丸親子が修行した場所と伝えられています。
石童丸物語(高野山霊宝館HPより引用) 平安時代も後期頃の話です。九州の筑前(福岡県)は、刈萱荘博多というところに加藤左衛門尉(かとうさえもんのじょう)藤原の繁氏(しげうじ)という若い領主がいました。 繁氏には、桂子(かつらこ)御前という美しい妻の他に、千里(ちさと)御前という二番夫人の側室もいました。 加藤家は、こうした夫人達に囲まれて、春には華やかな花見をもよおすほど、それはそれは優雅な暮らしぶりでした。 桂子と千里との間は、普段は仲良く平静をよそおっていましたが、桂子の方は、心の中で若くて美しい千里を憎んでいました。 ある夜、繁氏は、この二人が囲碁をしているのを薄明かりごしに見ることがありました。 すると、どうでしょう。 二匹のヘビが絡みあって戦っているように見えるのでした。 そうこうするうちに、正室である桂子の千里に対する憎しみがあらわとなり、ついには千里殺害の計画がくわだてられます。 しかし家来の計らいにより、他人が身代わることによって千里自身の命は救われ、加藤家を逃れることになりました。 嫉妬(しっと)と憎(にく)しみというものは、時として人の命をも奪い取ってしまいます。 繁氏はホトホト嫌気がさしてしまいました。 この事件は繁氏自身をもひどく後悔させ、またそのことで繁氏の妻に対する心はむなしいものへと変化していきました。 やがて、繁氏は誰にも行く先を告げず高野山の安養寺円慶を頼って登山し、出家してしまいます。 その名を円空と改めました。 時に、繁氏21歳でした。それからというもの、蓮華谷に質素な萱(かや)の屋根の庵(いおり)を結んで一心に修行にはげみ、周囲からは刈萱道心(かるかやどうしん)と呼ばれるようになりました。 一方、千里は加藤家より播磨の国の大山寺に逃れ、観海上人に身を寄せ、やがて男子を産みました。 これが石童丸です。 繁氏が出家した折り、すでに身ごもっていたことなど繁氏自身は知る由もありません。 石童丸も大きくなった頃、高野山に刈萱道心というお坊さんがいるという噂(うわさ)が聞こえてきました。 刈萱というのは筑前の刈萱荘にちなんだ名前であることはすぐに想像がつきます。 千里と石童丸は、父、繁氏を求めて高野山へと向かいます。 千里と石童丸の二人は、高野山の麓(ふもと)、学文路(かむろ)で宿をとりました。 この宿の主人、玉屋の与次兵衛から、高野山は女人禁制で女性は入山できないことを聞かされ、断念します。 それではということで、千里は、父の身体的な特徴を石童丸に伝え、独り高野山へと向かわせます。 しかし、なれない足で不動坂まで来た頃には、とっぷりと日は暮れてしまいました。 仕方なく、不動堂(外の不動・清不動)で一夜を明かすことになります。 翌日、高野山へ登った石童丸は、あちこち訪ねて歩きます。 しかしなかなか遭うことがかないません。 数日目に、たまたま奥之院の無明(むみょう)の橋まで来たときに、前から花筒を持ったお坊さんとすれ違います。 そこで石童丸は駆け寄って、「刈萱道心という方を探しています。 どこにおいでかご存じありませんか?」と尋ねました。 繁氏(円空)は石童丸の身の上を聞いて、たいそう驚くことになります。 石童丸の話を聞いた繁氏(円空)は、自分が父であることを名乗りませんでした。 しかも、「繁氏という人物は去年の秋に亡くなった。 その墓は、ちょうどそこに建っている墓である」と近くにあった適当なお墓を指し示して石童丸に伝えました。 それを聞いた石童丸は、その墓の前で泣き崩れます。繁氏(円空)は出家した修行中で身であることから、今さら石童丸が我が子とわかっても、すでにどうすることも出来なかったのでしょう。繁氏(円空)は石童丸に「早く母の元に帰ってあげなさい」といいます。石童丸はしかたなく、トボトボと母の待つ学文路の宿まで帰ります。  石童丸が学文路の宿まで帰ってみると、なんと、母の千里はこれまでの長旅がたたったのか、発病して急に亡くなっていました。石童丸の悲しみの程は、察しても余りがあります。しかたなく、この学文路の地で母を葬ることになります。父とも巡り会わず、さらに母にも旅立たれ、ひとりぼっちになってしまった石童丸。そこに思い浮かぶのは、母から聴いた父の特徴によく似た高野山で遭ったあのお坊さんの事でした。 あの方なら私の相談にのってくれるに違いないと、再び高野山を目指すことになります。 そうして高野山に登った石童丸は、父繁氏(円空)の弟子となり道念と名乗りました。 しかし繁氏(円空)は、生涯、親子であることは石童丸には伝えなかったそうです。 その後30年以上、師弟として一緒に刈萱童で修行に励んだのだそうです。 その後、繁氏(円空)は信州の善光寺に赴き、御堂を構えて地蔵菩薩を刻み、建保2年(1214)に没しました。 追って石童丸(道念)も信州に移り、父と同じく地蔵菩薩を彫り上げました。 その地蔵さんは現在も、「親子地蔵」として信仰されているそうです。

密厳院門前には物語の主人公、石堂丸の母親である千里(ちさと)御前の御墓があります

密厳院門前にある千里(ちさと)御前の御墓、当時高野山は女人禁制だったため遺髪か身の回りのものを御墓に埋めたのでしょう。

密厳院門前にある千里(ちさと)御前の御墓、隣の赤いお堂が刈萱堂

翌朝納経し刈萱堂の墨書き御朱印を頂きました。