旅館栄家 当願堂 玉泉寺 長尾寺 一畑御坊 高地蔵

2013.04.10 
88箇所 写ログ
Shikoku pilgrimage 88 and bangai 20
この日東京あきる野市のお遍路Mさんは志度の旅館栄壮を発ち暮当・当願大明神の当願堂、玉泉寺、長尾橋、長尾寺、一畑御坊一心庵、高地蔵、前山、昼寝城址、女体山、大窪寺、竹屋敷、から塩江温泉、赤松食堂(赤松旅館)まで歩かれました。写真を三分割して当願堂、玉泉寺、長尾橋、長尾寺、一畑御坊一心庵、高地蔵あたりまで紹介します。

☆☆


旅館栄壮の生け花   2013.04.10  04:54
栄壮お接待のお弁当に「また お会いできますように.....」と書かれたカードが添えられていた。弁当は、わかめの入りおにぎり二個、梅干、ゆで卵、つくだ煮とたくあん、割りばし、ミカンとお手ふきが入っていました。 (写真はぶれていたので省きました)
お茶の缶には 次の一文が添えられていた
   丁度よい
   お前は、お前で ちょうどよい
   顔も体も名前も姓も  お前に それは丁度よい
   貧も 富も 親も子も 息子の嫁も その孫も それはお前に丁度よい
   幸せも不幸も よろこびも 悲しみさえも丁度よい
   歩いたお前の人生は 悪くもなければ 良くもない
   お前にとって丁度良い 地獄へ行こうと 極楽へ行こうと いったところが丁度よい
   うぬぼれる要もなく 卑下する要もなく 上もなければ 下もない 
   死ぬ月日さえも 丁度よい
☆☆

「丁度よい」 をWeb検索すると記事が見つかりましたのでそれを引用し転載します。石川県野々市町真宗大谷派常讃寺坊守、藤場美津路(みつじ)さんが、月に一度発行する寺報「法友」の82年2月号に掲載されたものでした。最初の題は「仏様のことば(丁度よい)」。「仏様の声が頭の中に聞こえてきたので、そのまま書き取りました」ということのようです。信者ら70人ほどに配ったところ、書き写して友人に贈ったり、コピーして配ったりが繰り返されて、全国に出回るようになった。いつしか題は「丁度よい」だけになり、宗教的な色彩の強い最後の5行が省かれ、作者も良寛に。藤場さんは、「間違われた良寛様も苦笑なさっておられるのでは。この詩は、「自己否定の苦悩の中に聞こえた仏様の慈愛の言葉です。安易な現状肯定ではありません」と話されたということです。
    お前はお前で丁度よい
    顔も体も名前も姓も
    お前にそれは丁度よい
    貧も富も親も子も
    息子の嫁もその孫も
    それはお前に丁度よい
    幸も不幸もよろこびも
    悲しみさえも丁度よい
    歩いたお前の人生は
    悪くもなければ良くもない
    お前にとって丁度よい
    地獄へ行こうと極楽へ行こうと
    行ったところが丁度よい
    うぬぼれる要もなく卑下する要もない
    上もなければ下もない
    死ぬ月日さえも丁度よい
    仏様と二人連の人生
    丁度よくないはずがない
    丁度よいのだと聞こえた時
    憶念の信が生まれます
    南無阿弥陀仏

☆☆


早朝に志度寺の門前を通過  2013.04.10  04:59

3号線を南下します、このすぐ右側が当願堂  2013.04.10  05:33

畑には桃の花が咲いております  2013.04.10  05:35

当願堂 (暮当・当願大明神)  2013.04.10  05:35

当願堂 (暮当・当願大明神) 前の休憩所  2013.04.10  05:36
昔むかし、志度の長行の庄に当願(とうがん)と暮当(ぼとう)という猟師の兄弟が住んでおったそうな。兄の当願は、豊かな家の娘をめとり暮らしには困らなんだが、
弟の暮当は毎日の飯にも困る貧しい暮らしをしておった。志度寺の堂塔建立の法会があった日のこと、兄の当願は朝からお参りに行ったのじゃが、弟の暮当は妻子の食料を得るため山へ猟に行かねばならなんだ。弟の暮当は「今頃、志度のお寺ではありがたい説教がはじまっているだろうなあ」と思いながら山の中に在り、兄の当願は「弟め、あの穴場で、獲物を独り占めにして!」といまいましく思っておったそうな。日も暮れ始め、なんとか今日一日の獲物にありつけた暮当は、ありがたい説教の話を
兄の当願にあれこれ聞こうと急いで家に帰ったそうな。ところが、当願がまだ家に帰ってなかったもんじゃから、当願を迎えに志度寺へ出かけて行ったそうな。志度寺でぼんやりと座っている兄の当願のそばへやってきて暮当はびっくり。兄の当願からはなんともいえない悪臭がただよい、腰から下が蛇のしっぽになっておったそうな「暮当よ、今日おれはこのありがたい法会の席にありながら、山へ行ったおまえが獲物を独り占めにしておるようで、ねたましく思って、念仏ひとつ唱えなかった。その報いをうけたのじゃ。こんな体では、もう家に帰ることもできぬ。幸田の池へ連れて行ってはくれまいか。」暮当は、泣き泣き当願を背負って幸田の池まで連れて行ったそうじゃ。池の中へ入った当願はみるみる全身が蛇の姿となり、池の中へと消えていったそうじゃ。それから毎日、暮当は幸田の池に兄の当願に会いにいっておったが、どんどん大きくなった当願は大蛇となり、幸田の池では手狭になって満濃池に引っ越すことにしたそうじゃ。その時に、大蛇となった当願は、弟の暮当に苦労をかけたと「この玉をかめに入れて酒を造り、売りに行くがよい。少しはおまえの生活も楽になるだろう。」自らの目をくりぬいて弟に渡したそうじゃ。当願の教えどおり、酒を造ってみたところ、よい香りの酒ができた。売り歩くと評判もよく、少しずつ暮当の暮らしも楽になった。不思議なことに、この酒は酌んでも酌んでもつきることがなかったそうじゃ。とことろが、酒蔵のことを不審に思った暮当の妻が、かめの底の玉を探し出し、村の者に話してしもうた。その噂が領主様の耳に入り、ぜひともその玉を差し出すようにとの命令が下り、逆らうこともできず、泣く泣く差し出したそうじゃ。玉は、領主から国司へ献上され、「もともとこの玉は双玉といって、もうひとつあるはず。もうひとつの玉も献上するように」とお達しがあったそうじゃ。この厳命に背けば、生活が成り立たない上に命まで危なくなった暮当は満濃池の大蛇である兄の当願に、事の成り行きを話に行った。「暮当よ。もうひとつの玉も持っていくがよい。水の底には住みなれて、目の玉がなくても不自由しない。早くもって行くがよい。」暮当は「兄さん、本当にすまない」というと、その玉を涙で磨いて献上したそうじゃ。国司からほうびがでたそうじゃが、それを断り、暮当はそれ以来行方知らずと
なったそうな。兄の当願はこのことを知り、大変悲しみ怒り、満濃池の堤を突き破り瀬戸内海の大槌と小槌の島の間(槌の門)まで飛んでいき、それ以来姿を見せなくなったそうな。しかし、不思議なことにそれ以来、長行の村人が旱魃で困っている時酒を入れた大樽を槌の門に投げ込んで願うと、必ず雨が降ってくるそうな。当願と暮当の住んでおった家の跡には、今も当願堂があり、雨乞いの堂として祀られておるということじゃ。  〜ウェブサイト空海〜 様より転載しました。

当願堂(暮当・当願大明神) 前の休憩所  2013.04.10  05:36

当願堂(暮当・当願大明神) 前のへんろ道案内図  2013.04.10  05:36

へんろ道は3号線の飯田農園の先の信号から左前方へと入ります  2013.04.10  05:45

旧道のへんろ道しるべ  2013.04.10  05:47

道端の菜園と花  2013.04.10  05:48

87番の奥の院玉泉寺の山門口  2013.04.10  05:51
十六世紀の半ば過ぎに書かれた岡田太夫の「さぬき一円道者日記」には、西沢の里から宮ノ西の里の間に六人の道者の名が書かれている。このあたりが ”お大師さんの休み場” と呼ばれる由来も、ここがそのような聖なる土地柄であったためと思われる。「新撰讃岐国風土記」には、宮ノ西に仏堂として「数珠くり地蔵」のお堂が載っている。門前に「お茶堂」があって、むかしからお接待で賑わうミニ札所であった。お地蔵さんは、この世とあの世を守る仏として庶民に親しまれ、信仰されてきた。玉泉寺の本尊日切地蔵の日切というのは、日を限ってお願いすると功徳がいただけるというお地蔵さまである。境内には六十年間に二百八十回四国霊場を巡拝した中務茂兵衛の建てた、明治二十八年と明治四四年の二つの道標がある。同寺の本堂・庫裏・鐘楼は、昭和恐慌の不景気の最中に整備されたもので、山門は霊芝寺から移された薬医門である。本堂前の棚仕立ての古木(白い房の長い藤の花)は、近在きっての美しさである。(説明板より)

☆☆


玉泉寺の山門  2013.04.10  05:51

玉泉寺の大師堂  2013.04.10  05:58

玉泉寺の鐘楼  2013.04.10  05:58

玉泉寺の手水  2013.04.10  05:58

玉泉寺の本堂  2013.04.10  05:58

玉泉寺の藤棚  2013.04.10  05:59

玉泉寺、本堂前の棚仕立ての古木(白い房の長い藤の花)  2013.04.10  05:59
花が咲く時期になると長い花房の美しい花が見られると言うことです。

和木酒店を過ぎると川の手前に交差点、橋を渡って長尾寺へ  2013.04.10  06:07

長尾橋の休憩所  2013.04.10  06:18
鴨部川手前で3号線との交差点を右手前方の川沿いの道へ入ります。
鴨部川に架かる長尾橋を渡ります  2013.04.10  06:18

鴨部川に架かる長尾橋を渡ったところの道標説明板  2013.04.10  06:19

秋田清水九兵衛の道標  2013.04.10  06:25

秋田清水九兵衛の道標の説明板  2013.04.10  06:25

☆☆


87番長尾寺 ( Fudarakuzan Nagaoji, 87th of shikoku 88 )
H36m
第87番札所 補陀落山 長尾寺 (ふだらくさん ながおじ)
本尊  聖観世音菩薩 (せいかんぜおんぼさつ) 
真言  「おん あろりきゃ そわか」
開基  行基菩薩
宗派  天台宗 
御詠歌 あしびきの やまどりのをの ながをでら あきのよすがら みなをとなへて

↖  87番長尾寺(ナガオジ)境内図


87番長尾寺の門前  2013.04.10  06:34

87番長尾寺の山門前の經幢  2013.04.10  06:35

87番長尾寺の山門前の經幢  2013.04.10  06:35

87番長尾寺の山門前の經幢の説明板  2013.04.10  06:35

大窪寺までのへんろ道案内図  2013.04.10  06:36

87番長尾寺の山門は鐘楼門  2013.04.10  06:36

87番長尾寺の山門の仁王像  2013.04.10  06:36

87番長尾寺の山門の仁王像  2013.04.10  06:36

87番長尾寺の境内と正面が本堂  2013.04.10  06:37

87番長尾寺の境内の楠(写真では判り難いですが大木でした)  2013.04.10  06:48

87番長尾寺の本堂  2013.04.10  06:48

87番長尾寺の本堂  2013.04.10  06:49

87番長尾寺の大師堂  2013.04.10  06:49

87番長尾寺の大師堂  2013.04.10  06:49

87番長尾寺境内の地蔵尊像  2013.04.10  06:50

静御前の剃髪塚  2013.04.10  06:50

結願の道案内図  2013.04.10  06:56

87番長尾寺から50mやなぎや旅館の横にある大窪寺への道しるべ  2013.04.10  07:00

やなぎや旅館と はまや の間の道を南下 2013.04.10  07:00

宗林寺口  2013.04.10  07:13

宗林寺口の弁慶の馬の墓   2013.04.10  07:14

冬遍路 バサッと 数珠を落としけり  2013.04.10  07:14

句碑の並ぶ一畑御坊宗林寺参道   2013.04.10  07:14

塚原で鴨部川に架かる塚原橋を渡り
さらに川沿いを進むと道脇に立派な石灯籠  2013.04.10  07:28

道しるべを一心庵へ直進  2013.04.10  07:28

旧道の道脇に小さな釈迦堂  2013.04.10  07:31

釈迦堂の説明板  2013.04.10  07:31

供養塔、地神さん、道しるべ、南妙法蓮華経碑、光明真言記念碑等  2013.04.10  07:31

道脇の花  2013.04.10  07:33

旧へんろ道案内板  2013.04.10  07:34

一心庵  2013.04.10  07:35

一心庵の説明板  2013.04.10  07:35

一心庵の少し南、墓地の横には休憩所が間を置いて左右にあります  2013.04.10  07:37

少し先の茂みのところに高地蔵が台座の上におられます  2013.04.10  07:42

高地蔵前のトイレ   2013.04.10  07:42

高地蔵脇の大師堂  2013.04.10  07:42

高地蔵界隈の説明板   2013.04.10  07:43

馬の墓  2013.04.10  07:43

馬の墓の説明板  2013.04.10  07:43

高地蔵のすぐ先で旧道は3号線に合流  2013.04.10  07:44

喫茶店の少し先には市之江のバスストップ  2013.04.10  07:45

バスストップの先で旧道に入り歩いてゆくと道祖神がお出迎え  2013.04.10  07:48

写っていませんが抱擁しあった裸体像もあるのですが?  2013.04.10  07:48

道脇の道祖神  2013.04.10  07:48

道脇の小さな蔵の両脇に道祖神  2013.04.10  07:48

小さなお堂には未完堂とあるので道祖神も含めて
趣味で造られたものか??  2013.04.10  07:49

☆☆

大窪寺への女体山越えの道で「へんろみち保存協力会」の遍路地図で3号線の大石と梅ケ畑のバスストップ中間付近の旧道、この写真の道祖神前を通過して最初に出てくる橋にはへんろ道直進の矢印がありますが、この橋をを渡って歩いても前山ダムの両岸からの道と合流できます。(「へんろみち保存協力会」の遍路地図上に4.1Kとある分岐点の所です)