2013.04.09
88箇所 写ログ
Shikoku pilgrimage 88 and bangai 20
一宮の天然温泉きららを05:22に発ち屋島を目指して北上し春日川、新川を渡り北上、屋島御加持水、喰わずの梨から屋島寺、屋島からへんろ道を下り牟礼町へ、須崎寺を経て八栗寺、牟礼へ下って海岸線の旧志度街道を歩き、平賀源内旧邸、地蔵寺、志度寺と歩かれ平賀源内記念館を見学のあと志度の旅館栄荘に宿泊されました。写真を三分割して二ツ池親水公園から志度寺まで紹介します。
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池の角を東へ歩いてくると地蔵堂があり右折、役度神社の前を通り 2013.04.09 12:40
海岸に出たら海沿いの道を南下 2013.04.09 12:41
道の駅源平の里むれの公園にある電車 2013.04.09 12:59
琴平電鉄335号 2013.04.09 13:00
琴平電鉄335号の説明板 2013.04.09 13:00
琴平電鉄335号 2013.04.09 13:00
琴平電鉄335号の車内 2013.04.09 13:00
道の駅源平の里むれの入り口 2013.04.09 13:06
琴平電鉄の踏切を渡る 2013.04.09 13:17
旧志度街道 2013.04.09 13:21
旧志度街道にある用心堀と石灯籠 2013.04.09 13:24
高松藩松平家が、領内の百姓から取り立てる年貢米を収納するため、藩内各所に米蔵を建てた。その一つがここにあって、蔵が三棟と、年貢米検査所、藩役人や蔵番の部屋があり、志度の御蔵と呼ばれた。志度町新町平賀家はこのお蔵番を平賀源内の曾祖父が初代に取り立てられ、四代目源内が学問を目指し退役するまで平賀家が代々つとめた。そのこの石灯籠は用心のために嘉永4年(1851)建てられたものである。
平賀源内旧邸前 2013.04.09 13:26
平賀源内がオリーブと間違って植えたホルトノキの説明板 2013.04.09 13:26
平賀源内旧邸前 2013.04.09 13:26
志度周辺案内図 2013.04.09 13:27
平賀源内旧邸案内図 2013.04.09 13:27
平賀源内の生家。源内の妹の孫が文久2年(1862)に建替え、その後幾度の改修を経て現在に至る。平成22年(2010)、国の登録有形文化財として登録された。旧邸奥では、源内ゆかりの薬木・薬草百種余りを植栽した薬草園がある
平賀源内旧邸の庭 2013.04.09 13:36
蓮 2013.04.09 13:36
薬草 しゃくやく、なんてん 2013.04.09 13:37
薬草 朝鮮人参 2013.04.09 13:37
薬草 あかが、サフラン 2013.04.09 13:37
薬草 あまどころ 2013.04.09 13:38
薬草 あんず あまちゃ 2013.04.09 13:38
薬草 アスパラガス 2013.04.09 13:39
薬草 やまふき 2013.04.09 13:39
薬草 かりん 2013.04.09 13:39
薬草 じゃのひげ 2013.04.09 13:40
薬草 めぎ 2013.04.09 13:40
薬草 きんみずひき 2013.04.09 13:41
薬草 月桂樹 2013.04.09 13:41
薬草 こぶし くさぼけ 2013.04.09 13:42
薬草 とくさ 2013.04.09 13:42
平賀源内の窯 2013.04.09 13:42
平賀源内の窯の図面 2013.04.09 13:43
平賀源内の銅像 2013.04.09 13:44
地蔵寺 2013.04.09 14:01
志度寺の創始者薗子尼が住んでいたとされ「薗子屋敷」とも呼ばれる。また、悪魚退治の伝説が残っており、悪魚の祟りを封じるため地蔵菩薩を祀って建てたお堂「うおのみ堂」がある。樹齢600年以上と言われ、竜が天に昇るように見えることから「昇竜の柏」と呼ばれる巨木が目を引く。
地蔵寺の山門 2013.04.09 14:01
地蔵寺の鐘楼 2013.04.09 14:01
地蔵寺の本堂、本尊は文殊菩薩 2013.04.09 14:01
地蔵寺の地蔵堂(魚霊堂)兼大師堂 2013.04.09 14:01
地蔵寺の境内石仏 2013.04.09 14:02
地蔵寺の境内歌碑 2013.04.09 14:02
地蔵寺の庚申宮 2013.04.09 14:02
地蔵寺から700mで86番志度寺の石柱門と志度寺 2013.04.09 14:13
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86番志度寺 (Fudarausan Shidoji, 86th Shikoku 88)
H2m
第86番札所 補陀洛山 志度寺 (ふだらくさん しどじ)
本尊 十一面観世音菩薩 (じゅういちめんかんぜおんぼさつ)
真言 「おん まか きゃろにきゃ そわか」
開基 藤原不比等
宗派 真言宗善通寺派
御詠歌 いぎさらば こよひはここに しどのてら いのりのこゑを みみにふれつつ
↖ 86番志度寺(シドジ)境内図
86番志度寺の山門 2013.04.09 14:14
志度寺の説明と境内図 2013.04.09 14:14
86番志度寺の仁王像 2013.04.09 14:15
86番志度寺の仁王像 2013.04.09 14:15
86番志度寺の扁額「補陀落山」 2013.04.09 14:15
86番志度寺の五重塔 2013.04.09 14:15
86番志度寺の鐘楼 2013.04.09 14:16
86番志度寺の本堂 2013.04.09 14:23
86番志度寺の本堂 2013.04.09 14:23
謡曲「海士」と海士の墓の説明板 2013.04.09 14:24
86番志度寺の大師堂 2013.04.09 14:32
86番志度寺の大師堂 2013.04.09 14:33
86番志度寺の奪衣婆堂 2013.04.09 14:33
格子からから中をのぞくと恐ろしい形相の奪衣婆像があります
86番志度寺の境内 2013.04.09 14:34
海女の墓の方向 2013.04.09 14:34
平賀源内墓所常楽寺の山門 2013.04.09 14:44
自性院常楽寺の説明板 2013.04.09 14:44
平賀家が自性院常楽寺の檀家である。 2013.04.09 14:44
自性院北正門から入ってすぐ右に、18世紀から20世紀にまたがる日本の夜明けを演出した平賀源内の墓がある。平賀源内は安永8年(1779)12月18日、没年51歳、江戸伝馬町で牢死された。殺傷事件で入牢して1ヶ月足らずのことで、判決も下されないまま、病死(破傷風?)とされた。田沼政治の重商主義で花開いた江戸文化も、松平定信の圧政のもと大田南畝をはじめ言論は完全に統制され、萎縮してしまった。源内の殺傷事件の真相が田沼寄りに語られることはあり得ないことであった。ただ大正13年2月11日、宮内省より従五位が授与されたことは、国としての無罪審判であり、平賀源内の偉業を高く評価したものと考えられる。源内の死後まもなく出た「当世見立三幅対」に「死後に至りて今に人のをしがるもの」として3人(平賀源内・秋元弦久・王子路考)の筆頭にあげられ、貴賎を問わず人を魅了して止まない人柄に、惜しまれ懐かしがられたのであった。なきがらは杉田玄白、千賀道隆らによって江戸総泉寺に葬られ、志度では妹婿平賀権太夫により安永9年1月27・28日に初七日の法要が営まれた。現在は平賀源内先生顕彰会によって毎年12月に、お墓のある自性院で追善法要が営まれている。
自性院常楽寺の平賀源内の墓。 2013.04.09 14:44